商社設立禁止宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:37 UTC 版)
住友には、戦前独立した商事部門がなかった。第一次世界大戦が勃発し、経済界は非常な好況期を迎え、大正7年(1918年)11月に休戦協定が成立した後も、輸出はますます活況を呈し、貿易商社は大きな収益を挙げたので、多数の商社が続々と設立され貿易に乗り出していった。鈴木は、大正8年(1919年)3月、戦後の欧米の状況視察に外遊したが、その不在中に住友総本店幹部の間に、三井、三菱の隆盛に圧倒されていた状況もあって、住友も時流に乗って商事貿易に進出すべきであるとの意見が強まり「他所製品取り扱いの件」と題する、いわゆる商事会社設立構想の起案文書まで用意して、総理事の帰国を待った。鈴木は欧米の視察を終えて帰途、大正9年(1920年)1月、上海に立ち寄った時、住友上海洋行(支店)の支配人が、商事会社を設立することの必要性を力説し総本店の空気を伝えた。しかし鈴木は、これに同意しなかったばかりか、帰国すると直ちに関係者を呼び出し、厳しく商事の禁止を申し渡し、さらに主管者会議の席上「住友は絶対に商事はやってはならぬ」と宣言した。これが大正9年(1920年)1月の「商社設立禁止宣言」であり、戦後、商社が開設されるまで、住友では商社開設が禁句になってしまった。三井・三菱が商いから身をたてたのに比較して、住友は別子銅山を中心に製造業で伸びてきた違いがあるのと、そもそも初代の住友政友が書き遺した『文殊院旨意書』に「人と物の仲介をするな」とあるため、商事部門に否定的だったためである。このため、昭和20年(1945年)に日本建設産業(現・住友商事)が設立されるまで、四半世紀ものあいだ住友では、商社開設はタブーとなった。
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