商社設立禁止令の壁
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住友には、戦前独立した商事部門がなかった。大正の初期、第一次世界大戦が勃発し、経済界は非常な好況期を迎え、大正7年11月に休戦協定が成立した後も、輸出はますます活況を呈し、貿易商社は大きな収益を挙げ、多数の商社が続々と設立され貿易に乗り出していった。第三代住友総理事鈴木馬左也は、大正8年3月、戦後の欧米の状況視察に外遊したが、その不在中に住友総本店幹部の間に、三井、三菱の隆盛に圧倒されていた状況もあって、住友も時流に乗って商事貿易に進出すべきであるとの意見が強まり「他所製品取り扱いの件」と題する、いわゆる商事会社設立構想の起案文書まで用意して、総理事の帰国を待った。鈴木は欧米の視察を終えて帰途、大正9年1月、上海に立ち寄った時、住友上海洋行(支店)の支配人が、商事会社を設立することの必要性を力説し総本店の空気を伝えた。しかし鈴木は、これに同意しなかったばかりか、帰国すると直ちに関係者を呼び出し、厳しく商事の禁止を申し渡し、さらに主管者会議の席上「住友は絶対に商事はやってはならぬ」と宣言した。これが大正9年1月の「商社設立禁止宣言」である。鈴木の趣旨は、第一に、「住友は鉱工業の経営に専念してきたため、商事活動の練達の人材を養成してきておらず、一歩誤れば大損害を被り、他の諸事業の経営まであやうくするおそれがある。」第二に、「商事活動を始める以上世界規模でやらねばならない。したがって巨額の資金を必要とする。それだけの資金を投入するのであれば現在専念している鉱工業の分野でもっと発展させ得る事業がいくらでもあり、そちらに投資すべき」というものだった。この時以来、住友では商社開設が禁句になってしまったのである。「事業転換方策懇談会」ではこの商社設立禁止令が反対意見の根幹であり、住友が起業以来、連綿と受け継がれてきた事業精神「浮利を追わず」に商事活動は反するという理事もいた。伝統擁護派の意見がでそろったところで、最後の決断は古田俊之助総理事に委ねられ、古田は「大局的に見て、商事活動に出ていく以外に道はない」と断をくだした。
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