戦後居合道界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 13:59 UTC 版)
終戦後の1950年(昭和25年)、高知に帰郷し、農業のかたわら小川村議会議長を1期4年間務める。議員の任期を終えると高知市内に移住し、1955年(昭和30年)に私立土佐高等学校の国語講師となる。同年、全日本居合道連盟第1回京都大会に参加。 1956年(昭和31年)、全日本剣道連盟居合道部発足に伴い、理事に就任する。1964年(昭和39年)、東京オリンピックの体操競技にヒントを得て、居合道の演武試合形式を考案する。この頃、全日本剣道連盟は居合道の統一された形を作る方針を打ち出したが、政岡は、流派の特色を消滅させた剣道形の轍を踏むなと主張し、初心者なら大森流をやれば充分であるとして頑強に反対した。しかし、統一形の必要性を主張する剣道連盟内の流れに抗しきれず、制定委員長を務めた。1969年(昭和44年)、全日本剣道連盟居合を制定する。 1968年(昭和43年)、石川県金沢市に移住。1973年(昭和48年)、少年剣道の稽古をつけた後に心不全で倒れ、死去した。享年77。
※この「戦後居合道界」の解説は、「政岡壹實」の解説の一部です。
「戦後居合道界」を含む「政岡壹實」の記事については、「政岡壹實」の概要を参照ください。
戦後居合道界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 14:01 UTC 版)
1957年(昭和32年)、香川県坂出市で開かれた戦後初の四国の剣道大会において、政岡壹實と共に無双直伝英信流詰合之位を演武する。1966年(昭和41年)、全日本剣道連盟居合制定の委員を務めた。
※この「戦後居合道界」の解説は、「山本晴介」の解説の一部です。
「戦後居合道界」を含む「山本晴介」の記事については、「山本晴介」の概要を参照ください。
- 戦後居合道界のページへのリンク