戦後好景気と公民権運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:05 UTC 版)
「ニューヨーク市の歴史」の記事における「戦後好景気と公民権運動」の解説
世界にある多くの大都市が第二次世界大戦によってダメージを受けた中ニューヨークは一切攻撃を受けなかったため、大都市としての経済力は、他の都市の追随を許さぬものとなった。また1947年から52年にかけて、国際連合の本部が建設された。パリに取って代わり抽象表現主義を中心とする芸術の都となり、ロンドンに取って代わり商業の中心になった。レヴィットタウンを発端として、郊外移住が盛んになり市の人口は50年代を境に減り始める。 1948年11月15日、ニューヨーク州商業委員会がニュージャージーからマンハッタンに入るバージ(船に引っ張ってもらい物を輸送する浮上方のコンテナ)に対して課金したことから港の影響力は衰弱していく。 マンハッタン・ミッドタウンは戦後の経済過熱によって空前の建設ラッシュが続きミッドタウンの容貌を瞬く間に変えた。建築様式もジッグラトからインターナショナル・スタイルへシフトした。またマンハッタン中東部に位置するイースト・ヴィレッジにも大規模な公共住宅が伝統的な家屋に取って代わるなどした。ロウワー・マンハッタンでは1960年代デイヴィッド・ロックフェラー主導の下、再開発が行われOne Chase Manhattan Plazaが建った。これらの再開発と建築ラッシュは常に何かを破壊しての元行われた。古典装飾様式の旧ペンシルベニア駅が破壊されたのを受け、市は伝統的な景観を残すため1965年都市景観保護法を可決した。グランドセントラル駅も一時期は破壊計画が立てられたが、なんとか法案に救われた。ロバート・モーゼスのもと建設されたフリーウェイは過度の混雑を生み問題となった。 1960年、ロード・バックリー(英語版)の死後ナイトクラブ従業員に所有義務があったニューヨーク市キャバレーカードのシステムが廃止された。60年代にはタイムズ・スクエアに性風俗店が大量にオープンし、90年代の改革まで残った。 1965年改定の移民法では国籍別に移民を規制することを廃止、このころアジア系アメリカ人のコミュニティが拡大する。 ニューヨークの繁栄に影を落とす出来事も発生した。それはメジャーリーグのドジャースとジャイアンツが1957年のシーズンを最後にカリフォルニア州に本拠地を移してしまったことに始まる。空きの部分は1962年にニューヨーク・メッツが創立されたことで埋まり、メッツは1964年にシェイ・スタジアムに本拠地を移すまで最初の2シーズンは元ジャイアンツのポロ・グラウンズを本拠地とした。 1965年11月9日、北アメリカ大停電の被害にあい、この時の苦い体験は1968年「Where Were You When the Lights Went Out?(日本題・ニューヨークの大停電)」(停電になったときあなたはどこにいた?)という題名で映画化もされた。製造業は中断され貿易はニュージャージに依存した(幸い対岸のNJには電力が来ていた)。 1960年代にかけておこった黒人の公民権運動では非暴力を謳うマーティン・ルーサー・キング・ジュニアに対して、マルコムXらを中心としてキングを支持しない人々もおり、64年から68年に駆けて起こったニューヨークでは暴動が発生した。黒人の住居、教育、就労などに多少の改善はあったが、スラム、ゲットーの生活は、根本的な解決は見られなかった。 レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーと警官の衝突はストーンウォールの反乱として知られLGBT権利運動を世界中に広めた。最初の反乱は1969年6月27日金曜日の夜1時20分頃に起こった。警官がグリニッジヴィレッジのゲイバー"ストーンウォール・イン"に駆けつけ、近代最大のLGBTの逮捕劇となった。7月下旬ゲイ解放活動団体(GLF)がニューヨークで組織される。その年の年末には全米中の街や大学で同団体が見られるようになった。カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなどでも同じような団体が次々と結成されていった。この時からこの反乱を記念しGLFが5,000人から10,000人の人々を率いグリニッジ・ヴィレッジからセントラルパークまで大行進を行う。現在でもLGBTプライド・パレードとして有名である。
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