戦後復興と住所改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
「大町 (仙台市)」の記事における「戦後復興と住所改正」の解説
戦後の復興計画では、仙台駅から西に通じる駅前通として青葉通が新設され、これが大町の南を並行して通ることになった。幅36メートルの青葉通りが自動車交通の要路となり、大町五丁目が属する中央通は幅11メートルの一方通行になった。 1946年(昭和21年)に復活した仙台七夕の中心は、東一番丁になった。この後もアーケード設置や歩行者天国への転換で、東一番丁が中央通・大町をリードする時代が続いた。しかし、芭蕉の辻周辺への金融機関集積は戦後も続き、1950年代には仙台の金融の中心街であった。1952年(昭和27年)の固定資産税評価額換算の地価では、大町五丁目、新伝馬町、東一番丁の順になり、五丁目がなお東一番丁をおさえてトップである。一から三丁目は大きく後退した。 仙台市は、1970年(昭和45年)2月1日にこの地区の住居表示を定めるに際して、道路の両側を一つの町とするかつての区分方法を改め、広い道路によって画される大きなブロックで分割する方式をとった。このとき、大町と東一番丁はそれぞれその名を大町、一番町として留めることになったが、東一番丁と大町通の交差点にあたる大町五丁目は一番町に属すことを望んだ。その結果、芭蕉の辻から東は一番町三丁目になり、芭蕉の辻から晩翠通りまでが大町一丁目、それより西が肴町まで含めて大町二丁目となった。江戸時代には仙台城に近い西のほうを一丁目として東に向かって番号を増やしたのに、このときは仙台駅を中心としてそちらに近い東のほうから番号を振った。また、南の境界は新しく作られた青葉通になったため、それより南は片平一丁目に入った。
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