戦後復興時代
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「東海道本線優等列車沿革」の記事における「戦後復興時代」の解説
1947年(昭和22年)4月 東京駅 - 博多駅・門司駅間に1往復ずつ、計2往復の急行列車が復活。以後列車は増発されていくようになる。 1948年(昭和23年)7月 戦後初の白紙ダイヤ改正が行われ、全国で急行列車と、2年前の11月に東北地域で初登場していた準急列車が設定・増発されるなどした。東海道本線でも不定期の準急列車が5往復設定されたが、その一方で急行列車の速度は低下した。なおこの改正により、東海道区間における急行列車は定期3往復・不定期2往復となった。 1948年(昭和23年)12月 東京駅 - 鹿児島駅、東京駅 - 大阪駅間運行の急行列車2往復(1・2列車、11・12列車)に「特別寝台車」を連結開始。外国人向けのもので、日本人には売れ残った場合のみ寝台券を販売したが、ともかく日本人が乗れる寝台車が復活した。 1949年(昭和24年)5月 特別寝台車は、一等寝台車に改称。 1949年(昭和24年)6月 国有鉄道の運営が、それまでの運輸省から公共企業体の「日本国有鉄道」へ改められる。 1949年(昭和24年)9月15日 大規模なダイヤ改正を実施。 東京駅 - 大阪駅間にて特急「へいわ」が運転を開始。同区間は9時間を要し、1934年(昭和9年)12月改正時の「燕」の8時間にはまだまだ及ばなかったが、ともあれ国鉄における特急列車が5年ぶりに復活した。 「へいわ」と東京駅 - 鹿児島駅間運行の急行1・2列車で食堂車の営業が開始され、これまた5年ぶりの復活となっている。 東京駅 - 大阪駅間で運行していた急行15・16列車(この改正で、11・12列車から改番)に「銀河」と命名している。これは急行列車では(戦前の大陸などを除いて)初の列車愛称であった。 新しく命名された「銀河」は、この改正で三等車を廃して一・二等車のみの編成となり、最後部には銀河をかたどったバックサインを掲げていた。しかしまだ三等車の混雑がひどい時代で、他の急行列車はどれも乗客ですずなりとなっている中、「銀河」は利用率が悪く常に短い編成でガラガラの状態で走るという有様となったため、客の分散を図るため運転開始9日目には三等車が連結されるようになった。 東京駅 - 名古屋駅間には夜行準急列車31・32列車が設定された。 ちなみに東海道本線での急行列車は、この時定期7往復となった。 1949年12月 東京駅 - 博多駅間に急行21・24列車新設。 1950年(昭和25年)1月1日 「へいわ」は、「つばめ」(戦後は平仮名書き)に改称される。名列車の名前が蘇った。 1950年(昭和25年)6月 「つばめ」の姉妹列車として、東京駅 - 大阪駅間に特急「はと」を設定。「つばめ」・「はと」のコンビは以後、1975年(昭和50年)3月まで続くこととなる。またこの時、特急列車に女性乗務員の「つばめガール」・「はとガール」が乗るようになった。 1950年(昭和25年)10月 前年に引き続き再び大規模なダイヤ改正を行う。 「つばめ」・「はと」は、東京駅 - 大阪駅間の所要時間を8時間とし、ようやく戦前の「燕」の水準に追いついた。 二等寝台車もこのころ復活する。 「銀河」の運転区間が東京駅 - 神戸駅間に延長。 東京駅 - 宇野駅間直通の急行列車が初めて設定され、同列車は「せと」と命名された。 東京駅 - 広島駅間(呉線経由)運転の39・40列車が設定。(東京駅 - 岡山駅間は、「せと」と併結) 急行21・24列車の運転区間を、東京駅 - 熊本駅間(筑豊本線経由)に変更。 前年登場した東京駅 - 名古屋駅間準急31・32列車の格上げ・区間延長の形態ながら、東京駅 - 湊町駅(関西本線、現・JR難波駅)・鳥羽駅(参宮線)間に1往復急行列車を設定。 これにより東海道区間の急行列車は9往復となり、ようやく活気が戻ってきた。 1950年(昭和25年)11月 「銀河」・「せと」に限らず急行列車に広く愛称をつけることになる。 「明星」 東京駅 - 大阪駅間運転の11・12列車 「彗星」 東京駅 - 大阪駅間運転の15・16列車 「大和」 東京駅 - 湊町駅・鳥羽駅間運転の201・202列車 「阿蘇」 東京駅 - 熊本駅間(筑豊本線経由)運転の31・32列車 「きりしま」 東京駅 - 鹿児島駅間運転の33・34列車(10月の改正で1・2列車から改番) 「雲仙」 東京駅 - 長崎駅間運転の35・36列車 「筑紫」 東京駅 - 博多駅間運転の37・38列車 「安芸」 東京駅 - 広島駅間(呉線経由)運転の39・40列車 1951年(昭和26年)4月 東京駅 - 大阪駅間にて、「つばめ」の2 - 10分後を追う時刻で臨時特急「さくら」(平仮名書き)が運転開始。以後、多客期には必ず設定される列車となった。 1951年(昭和26年)9月 「せと」は、「安芸」との併結を取りやめて単独運転となる。 1951年(昭和26年)11月 大阪駅 - 大社駅(大社線、現在廃止)間で運行されていた準急列車が東京まで延伸したうえで急行列車へ格上げされ「いずも」と名づけられる。この急行は東京から山陰へ向かう初の列車ではあったが線路容量の都合もあり、大阪駅まで「せと」と併結することになった。また、京都駅 - 博多駅・都城駅間にて設定されていた準急205・206列車から分離して、「阿蘇」に東京駅 - 門司駅間にて併結する形で、東京駅 - 都城駅間に「たかちほ」を設定。 1952年(昭和27年)4月 それまで、連合国軍による占領が終了したことを受けて、連合国軍専用列車として運行されていた列車が、「特殊列車」となって一部ながら日本人に開放するようになる。料金上は急行列車のそれとして扱われた。この時東海道区間を走る列車で開放されたのは、東京駅 - 佐世保駅間運転の1001・1002、1005・1006列車で計2往復であった。 1952年(昭和27年)9月 名古屋駅 - 大阪駅間に、毎日運行の不定期準急3405・3406列車設定。 1953年(昭和28年)3月 「筑紫」は鹿児島駅まで延長運転開始。東京 - 鹿児島間を2夜行で走った。また、それまで大阪駅 - 博多駅間運行の急行列車であった「げんかい」が、東京駅 - 博多駅間運行となる。 1953年(昭和28年)11月 東京駅 - 大阪駅間で、各等で編成された夜行急行「月光」が運転開始。また「大和」の鳥羽駅行きの編成が分離され、「伊勢」と命名された。準急3405・3406列車は定期列車となり、列車番号は405・406列車とされた。 1954年(昭和29年)8月 特殊1005・1006列車が、博多駅発着に短縮される。 1954年(昭和29年)10月 特殊列車は、完全に普通の急行列車に転換されて愛称もつけられることになり、東京駅 - 佐世保駅間運転の1001・1002列車は「西海」、東京駅 - 博多駅間運転の1005・1006列車は「早鞆」となった。「たかちほ」は併結相手を「阿蘇」から「げんかい」に変更。
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