戦後復興期 - 1970年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:49 UTC 版)
「長崎自動車」の記事における「戦後復興期 - 1970年代」の解説
長崎市は原子爆弾の投下により多大なる被害を受けたが、数台の車両がほぼ無事であった。原爆投下直後からしばらく、難を逃れた車両は食糧輸送や救援のために被爆直後の長崎市内を走り回った。 その後、老朽車両の使えそうな部品を寄せ集めて組み直して代燃車を6台整備し、1945年(昭和20年)10月より運行を再開した。さらに1947年(昭和22年)末までにはシボレー、フォード、トヨタ、日産の代燃車18台を確保して運行が行われ、運行状態は平常近くまで復旧した。その後、国産バスの生産体制が軌道に乗ったことから1948年(昭和23年)8月にガソリン車やディーゼル車などを購入、1952年(昭和27年)には国の燃料統制が廃止されて燃料不足の問題も解消した。新型車への切り替えにより、代燃車は1952年(昭和27年)末までに全廃された。また、1944年(昭和19年)に運休を申請していた路線の一部は悪路や資材不足のため代燃車が運行できず引き続き運休していたが、1954年(昭和29年)までに全ての路線で運行を再開した。 戦後復興期の頃は、茂木線を茂木営業所、時津線を時津営業所、その他の市内線や西彼杵半島、長崎半島の路線を大波止営業所の管轄としていた。しかし事業拡大に伴い路線数が増大し、大波止営業所の運行管理が煩雑化したため、市内や郊外の各地に設置した営業所への機能分散を行うこととした。1956年(昭和31年)に飽の浦営業所、戸町営業所、瀬戸営業所、1957年(昭和32年)に田上営業所、崎戸営業所と、2年で5営業所が開設された。 1950年代後半(昭和30年代)からは、車両に対して先端技術の積極的な導入を行うようになった。1957年(昭和32年)9月には全国2例目となる自動扉を取り付けた車両を導入した。自動扉付きの新型車両では扉位置が変更され、従来は前乗り前降りとなっていたものを中乗り中降り方式に変更した。1959年(昭和34年)6月29日には九州初となる完全冷房バスを導入し、1982年(昭和57年)7月には全国で最も早く全車冷房化を完了している。長崎バスが冷房化率100%を達成した時点で全国のバス事業者の冷房化率は30%未満であったとされる。
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