日本のカワラバトの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 08:28 UTC 版)
「カワラバト」の記事における「日本のカワラバトの歴史」の解説
日本では主に愛玩動物として飼育されていたと考えられるが[独自研究?]、カワラバトが渡来したのは今から1500年程前(飛鳥時代)であったと考えられる。カワラバトは古来より八百万神のお使い神と神社で尊ばれ、殺生はご法度、同じく仏閣でも古から魚・鳥等を野に放すことである放生会やエサやりが生類を哀れむ功徳とされ、長年保護され親しまれてきたことから、場所によってはヒトの足を踏むほど無警戒であり、「人間を最も恐れない鳥」とされている。そういったことから「鳩に三枝の礼あり(仔鳩が親の恩を感じ三つ下の枝に止まる故事より、礼儀を重んじることの重要性)」「鳩に豆鉄砲=鳩が豆鉄砲を食ったよう(突然の出来事に呆気にとられる様子)」「鳩を憎み豆を作らぬ(些細なことに拘って肝心なことが疎かになる愚かしさや弊害)」等、昔からの諺でもお馴染みである。 江戸時代、1783年(天明3年)に大阪の相場師・相模屋又市が投機目的のため米相場の情報伝達にカワラバトを利用したとされ、処罰されたという記録が残っている。また、ほぼ同時期の本にカワラバトの帰巣性について「鴿は主人の家を能覚へ居者ゆへ遠方に行くといへとも放つときは必其家に還る」(いえばとは主人の家をよく覚えているもので、遠方に連れて行っても放されると必ずその家に帰還する)の記述が見られる。 幕末に神奈川に滞在したアメリカの宣教師マーガレット・バラは著書「古き日本の瞥見」の中で、1862年の手紙に神奈川の寺にはカワラバトが多く住んでおり、寺の外だけでなく寺の中にまで住んでいることを記載している。さらにカワラバトに与えるための餌を紙袋に入れて売る売店があることも記載している。このことから、江戸時代には既に庶民がハトに餌をやる慣習があったことがわかる。 明治時代以降、カワラバトから長年にわたって品種改良された伝書鳩が欧米より輸入され、新聞社などで利用された。また軍部でも日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦から本格的に伝書鳩の研究を開始し、第二次世界大戦では多くの伝書鳩が使われた。 戦後復興期には、伝書鳩を使った鳩レースを行うための協会が設立された。 高度成長時代には伝書鳩の飼育が若年層を中心としてブームとなった。1964年に開催された東京オリンピックの開会式では、セレモニーの一部として伝書鳩達の空に舞い上がる姿が華々しくカラーテレビ中継され、前年開通した衛星中継により世界中に配信された。1969年にピークを迎える飼鳩ブームの火付け役となった出来事と伝えられている。しかし、1970年代も後半になるとブームは収束し、伝書鳩の飼育数は減少に転じた。以降、漸減傾向が続いている。 カワラバトはその他にも、海難犠牲者を発見させる訓練などが行われている。[要出典]。
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