戦後復興計画と曲直問答
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 22:44 UTC 版)
第二次世界大戦後、仙台市復興局は戦災復興計画の一環として仙台空襲で壊滅した市街に幅広い道路を敷くことにした。市が1946年(昭和21年)に作成した計画に、市道の仙台駅川内線建設が盛り込まれた。これが青葉通で、南北に走る東二番丁通とともに、50メートル幅の区間を持つ市内最大幅の道路となる予定であった。青葉通は従来の大町の南に並行するため、駅に向かって西公園で右ななめに折れ、ついで左に向き直って他の街路との関係を取り戻し、駅近くの東五番丁との交差点で10度だけ右に曲がって仙台駅正面に接続するものだった。計画は国の復興院の了解を得て、戦災復興土地区画整理事業として公示された。1947年(昭和22年)に河北新報紙上で通りの名が公募され、投票で1位を得た青葉通に決まった。 このうち駅前の10度の曲がりについて、直線にするべきだという主張と原案通りの曲線にするべきだという主張が対立し、「曲直問答」あるいは「曲直問題」として、戦後すぐの仙台市最大の政治問題になった。まず1947年(昭和22年)12月に住民が道路を直線に引くべきだという請願を仙台市議会に行った。市議会は当時計画中の新駅舎の位置を移動させるべく働きかけるという条件を付けて請願を満場一致で採択した。しかし市は干渉を嫌い、技術的に駅は絶対に移動できないと説明し、国家が決めたことを覆そうとするのは国家の名義に反すると反対論を非難した。市議会はこの態度に反発し、事態は岡崎栄松市長と市会の全面対決に発展した。 「曲直問題」には計画道路のどちら側の住民が立ち退くかという利害が関係しており、原案を支持する住民が反対の請願を出し、両派が活発な運動を繰り広げた。運輸省と建設院は、駅位置変更に否定的な回答を出した。焼け残りの建物を取り壊して立ち退かせることができるなら北にずらすことができるが、そのためには立ち退きに巨額の追加費用がかかるという言い分であった。議員の一部はこれを知って曲線容認に転じた。議会最大会派で保守系の市友クラブは内部対立で分裂し、1948年(昭和23年)5月16日に曲線派が市政振興同盟あるいは市友同志会を作った 両派は一松定吉建設院総裁に判断を仰ぎ決定を委ねた。一松は仙台を訪れて5月17日に仙台駅前川内線道路問題懇話会で両派の話を聞いた。東京に帰って同月末に曲線を決定し、31日にその意見書が市会で報告された。こうして青葉通は市の原案通りに10度曲げて駅正面にあたるようになった。 直線派はこのときの議論で曲がった道路の見栄えの悪さと交通困難を理由に挙げたが、現在の市民からそうした点についての不満は聞かれない。ただ、その後さらに代替わりして大きくなった仙台駅に対して、青葉通はもはや正面に対するものではなく、曲線でも直線でも駅の北側に突き当たるようになっている。
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