戦後恐慌と没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 07:24 UTC 版)
1918年(大正7年)佐賀県の多額納税者の互選によって貴族院多額納税者議員に就任した。在任期間は同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日までの7年間で、所属会派は研究会である。この間の1921年(大正10年)、福澤桃介が経営していた愛知県名古屋市の電力会社関西電気(旧・名古屋電灯)の経営を松永安左エ門が引き継ぐこととなり、同年12月、伊丹が福澤に代わって関西電気社長、松永が同副社長に就任した。関西電気と地理的に遠く隔てられた九州電灯鉄道は翌1922年(大正11年)5月に合併。6月の社名変更によって中京地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の大電力会社・東邦電力(本社東京)が成立した。 東邦電力は以後、大手電力会社「五大電力」の一角として発展していく。伊丹はこの東邦電力の社長となったのであるが、他の事業も抱えることから成立当初から経営をもっぱら代表取締役副社長の松永安左エ門に委ねていた。このため経営の実権を握っていたのは松永であり、伊丹は社長ではあるものの「お飾り」であったという。 一方頭取を務める栄銀行に目を向けると、1920年代に入ってから同行の関連企業は第一次世界大戦後の反動恐慌で軒並み経営が悪化していた。業績悪化によって関連企業からの借入金返済が滞り、逆に資金援助を求められた結果、1921年(大正10年)以降栄銀行の経営も悪化してしまう。とくに大口貸出先であり、伊丹家と姻戚関係にあった深川家の経営にかかる深川造船所が1924年8月に休業・破綻すると完全に行き詰った。経営難に陥った栄銀行は、深川造船所の事後処理に関係して1925年5月1日付で大島小太郎が頭取を務める唐津銀行(現・佐賀銀行)に吸収合併された。伊丹家と表裏一体であった栄銀行が消滅したことで、造船所が破綻した深川家とともに伊丹家は大正末期には没落した。 1928年(昭和3年)5月30日、伊丹は東邦電力社長を辞任、副社長の松永が後任社長となった。さらに九州鉄道の社長からも1930年(昭和5年)12月に退いている。その3年後の1933年(昭和8年)10月3日に死去。満66歳没。
※この「戦後恐慌と没落」の解説は、「伊丹弥太郎」の解説の一部です。
「戦後恐慌と没落」を含む「伊丹弥太郎」の記事については、「伊丹弥太郎」の概要を参照ください。
- 戦後恐慌と没落のページへのリンク