戦後教育改革期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 12:04 UTC 版)
「学制改革」も参照 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下の日本では教育改革が行われ、アメリカ合衆国をモデルとする単線型学校体系が導入された(学制改革。いわゆる六・三・三制)。1947年3月に学校教育法が制定されて新制高等学校が規定され、1948年3月より新制高等学校が発足した。これに際して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からは、学区制、男女共学制および総合制の原則(高校三原則も参照)が強く主張された。 学区制は、旧制中学校・高等女学校・実業学校の間にあった格差を是正し、機会均等と教育の民主化を図るという趣旨から導入された。1948年制定の教育委員会法は、第54条で都道府県教育委員会が公立高等学校の通学区域を定めるとし、都道府県教育委員会に地域に即して公立学校の平準化を進める権限が与えられた。文部省は、男女共学や総合制については「地方の実情、なかんずく地域の教育的意見を尊重して」決定するべきとするなど、必ずしも三原則の全国画一的な実施は指導はしなかったとされるが、都道府県の教育行政を監督する地方軍政部の中には強く実施を推進するケースもあり、三原則の実施については都道府県ごとに濃淡のある状況になった。全日制普通課程については全国で学区の設定が行われたが、必ずしも小学区制が徹底されたとは限らず、小学区制と中学区制が併用された都道府県も少なからずあった。 職業課程のうち、水産課程や工業課程など施設の限られるものについては全県を1学区とする設定がなされたが(当時は全県学区を「大学区」とも呼んだ)、農業・家庭・商業課程などについては小学区が設定された。普通課程と職業課程を併置し、両者の通学区を重複してを設定する総合制高等学校の設置も進められた。定時制課程については全県学区を採用した都道府県が多いが、全日制に準じて学区を設定した県もある。 1948年2月の文部省通達により、高等学校の入学者選抜に関しては、高等学校側での独自の試験を廃止し、中学校からの報告書(都道府県ごとに一斉に行う学力検査(アチーブメント・テスト)の結果を含む)に基づいて選抜するとした。これは小学区制の基盤の上で、志願者をなるべく多く入学させ、学校格差を平準化しようとするものであった。日本の入学者選抜史上「画期的な変革」(文部省『学制百年史』)であったが、新旧両制度の切り替え期にあって新制高等学校への入学者選抜は補欠的募集であったこと、また経済的な状況から入学志望者が少なかったことから、導入時には大きな支障や混乱はなかったという。
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