戦後復興期の流行と高度経済成長期の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 23:27 UTC 版)
「チンドン屋」の記事における「戦後復興期の流行と高度経済成長期の衰退」の解説
戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した。大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと、陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった。1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる。昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や、映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した。 チンドンのコンクールも開催されるようになった。東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋、沼津、姫路、伊勢、函館、彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった富山での「全国チンドンコンクール(1965年に全日本チンドンコンクールに改称)」は、2019年まで継続して開催された(2011年は東日本大震災のため、2020年からは新型コロナウイルスのため中止)。このコンクールは、全体を統括する組織がない中で、業界を「緩やかにつなぐ」役割を果たしている。 前年に富山産業大博覧会を終え、一時的に消費が冷え込んだ地元商店街の活性化と、観光客を招くため富山の宣伝を企図して、富山市と富山商工会議所が主催の「桜まつり」の催しとして始まり、42のチンドン屋が参加、平日昼間に行われたパレードには8万人が集まった。 「全日本チンドンコンクール」の記録では、1955年の第1回に42団体が参加、以後団体数は50前後を推移するが1972年から下降を始め、1981年には18団体まで減少する。その一方で、素人チンドンコンクールも始まり、そこからプロのチンドンマンに転進するものもみられ、その後プロ部門では30組前後の団体が出場している。 1960年半ば頃からは、テレビの普及などもあり、チンドン屋は「古くさい」ものとなってしまう。さらに昭和30年代頃からスピーカーを通した宣伝広告が音響上の脅威となり、加えて自動車の交通量が増加し商店街や横丁をも通行するようになったことで、都市においてチンドン屋が活動できる空間は狭まった。 昭和40年頃から衰退を見せはじめ、1971年の石油ショック以後急激に数を減らし、数百人程度にまで落ち込んだが、仕事自体は減っていなかったという証言も多い。
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