戦後復興と路線拡充
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 03:10 UTC 版)
「京浜急行バス衣笠営業所」の記事における「戦後復興と路線拡充」の解説
終戦後も燃料不足や物資不足で営業路線の縮小は続き、車輌不足を補うために、1947年(昭和22年)5月より神奈川営業所(1947年より休止、現東急バス川崎営業所へ統合)の川和線(東神奈川 - 川和)および杉田営業所(当時。分離前に休止?)の横浜線(杉田 - 横浜駅)を一時的に横浜市に委託し、それによって余剰となった車輌を転属させて運行を維持した。1948年(昭和23年)6月1日の京浜急行電鉄発足時に営業していた路線は衣笠駅 - 横須賀、長井 - 横須賀の2路線のみであった。 休止路線の再開は順次行われ、1948年中には市内線の横須賀駅乗り入れと池上線(横須賀駅 - 池上坂上)の運行が再開されている。その後も1955年(昭和30年)までに市内線の池上延長、市内循環線の運行開始、衣笠 - 木古庭間の運行開始など、路線の拡充が進んだ。なお、1948年8月から1954年3月まで、衣笠営業所は新設された三浦営業所の衣笠支所という扱いであった。 昭和30年代に入っても、池上線の衣笠までの全通、逗子線の全通、横須賀駅 - 高円坊線の開通などと路線の拡大は進んだ。これにより、現在の路線網がほぼ完成したと言える。またこの時期には海岸地区の小川港や三笠公園方面にも路線を開通させている。 昭和40年代に入るとモータリゼーションの進展により各地で路線の再編も行われるようになるが、衣笠営業所管内では先述の海岸地区の路線を廃止した程度で、横須賀駅 - 高円坊線の三浦海岸延長、鶴が丘循環線の運行開始など路線の新設も行われた。また1970年(昭和45年)には指定自動車工場が完成している。
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