北京オリンピックまで
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2005年2月のドイツ国際では決勝でデコスに有効で敗れた。4月の体重別決勝では上野に指導1で敗れながらも世界選手権代表に選出された。9月にカイロで開催された世界選手権では準決勝までオール一本勝ちで勝ち進むものの、決勝ではデコスに朽木倒で敗れて2位に終わった。11月の講道館杯では決勝で上野に指導2で敗れた。 2006年2月のドイツ国際決勝ではジョルニルを有効で破って優勝を飾った。4月の体重別決勝では東海大学の平井希を合技で破るなどオール一本勝ちして、ドーハアジア大会代表に選出された。6月の実業柔道団体ではチームの優勝に貢献した。9月のワールドカップ国別団体戦では準決勝でフランスと対戦するが、デコスに裏投げで敗れてチームも3位にとどまった。この試合は負けたものの、後の北京オリンピック決勝に次ぐ2番目に「やり切った」と言える充実した試合だったという。12月にドーハで開催されたアジア大会では準決勝で韓国の孔慈英に朽木倒で敗れて3位に終わった。続く福岡国際では準決勝で中国の穴書梅に有効で敗れるなどして5位にとどまった。 2007年2月のフランス国際では3位に終わった。4月の体重別では上野をGSに入ってから小外刈の技ありで破り、世界選手権代表に選出された。5月の実業柔道団体では前年に続いてチームの優勝に貢献した。9月にリオデジャネイロで開催された世界選手権では準決勝でゴンサレスに効果で敗れたが、3位決定戦でドイツのアナ・フォン・ハルニアーを袖釣込腰で破って銅メダルを獲得した。12月の嘉納杯では決勝で上野に大外刈で敗れた。この試合で以前から負傷していた腰の具合が悪化して一時は歩くのも困難な状況になったという。 2008年冬季のヨーロッパにおける国際大会には怪我のため出場しなかった。4月の体重別決勝では上野に指導1で敗れながらも2008年北京オリンピック代表に選出された。女子代表監督の日陰暢年によれば、この階級の代表選考では揉めたものの、上野は国際大会において技の掛け潰れが多い傾向にあり、一本を取る柔道が出来ていないとする一方で、谷本は一本を取れる技が備わっているので、例えポイントでリードされていてもそれを覆せるだけの決定力があり、さらに大舞台の経験が何度もあるのでその点でも信用を置けるというのが選出理由だと説明した。しかしながら、一連の代表選考大会においてライバルの上野に2連敗して(そのうちの1つは一本負け)、なおかつ、上野は国際大会でも多くの一本勝ちを収めて好成績を残しながら(プレオリンピック、嘉納杯、ドイツ国際で優勝、フランス国際2位 計20戦のうち14戦で一本勝ち)谷本の方が選出されたのは上野にとって「極めて気の毒」、あるいは「理不尽な評価」とする見方もあったものの、基本的にマスコミは同じ体重別の48kg級決勝でトヨタ自動車の谷亮子が三井住友海上の山岸絵美に敗れながらもオリンピック代表に選出されて物議を醸すことになった一件のみを大きく取り扱うばかりで、63kg級における代表選考の是非に注目することはほとんどなかった。 8月の北京オリンピックでは、3回戦で2年前のアジア大会で敗れた孔慈英を崩上四方固、準決勝では昨年の世界選手権で敗れたゴンサレスを横四方固で破るなど全て寝技による一本勝ちで勝ち上がると、決勝では2001年の福岡国際で優勢勝ちして以降7年近く勝っていなかった因縁のデコスと対戦することになった。だが、デコスが不用意に仕掛けた大内刈りをすかして豪快な内股で投げ飛ばして一本勝ちでの優勝を成し遂げて、柔道史上初の五輪二大会連続オール一本勝ちによる金メダルを獲得したオリンピックを連覇した日本人柔道家には斉藤仁、野村忠宏、谷亮子、内柴正人、上野雅恵がいるものの、二大会連続で全ての試合で一本勝ちを収めているのは谷本ただ一人である。ちなみに、世界選手権では優勝こそないが、そこで勝った試合は全て一本勝ちによる勝利である。
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北京オリンピックまで
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12月の福岡国際では決勝で薪谷を崩上四方固で破るなど、今大会でもオール一本勝ちして昨年に続く優勝を飾った。 2005年2月のフランス国際をオール一本勝ちで制すると、4月の体重別と全日本選手権の決勝では昨年に続いて薪谷を指導1と有効で立て続けに破って世界選手権代表に選出された。9月にカイロで開催された世界選手権では準決勝で佟文に後袈裟固で敗れて3位にとどまった。団体戦の中国戦でも佟文に崩上四方固で敗れたが、チームは3位となった。 2006年2月のドイツ国際では3位だったものの、4月の体重別と全日本選手権の決勝では後輩である東海大学の立山真衣を指導1と体落で立て続けに破って優勝した。9月にパリで開催されたワールドカップ国別団体戦では準決勝のフランス戦で一本勝ちしたもののチームは敗れて3位にとどまった。12月にドーハで開催されたアジア大会には当初78kg超級に出場予定だったが、怪我のため出場を取り止めた。 2007年2月のフランス国際をオール一本勝ちで制して2年ぶり2度目の優勝を飾ると、4月の体重別決勝では薪谷を指導2、続く全日本選手権決勝では兵庫県警の堀江久美子を3-0の判定で破って世界選手権代表に選出された。9月にリオデジャネイロで開催された世界選手権では、78kg超級決勝で佟文に指導1で敗れたものの、無差別では決勝でスロベニアのルツィヤ・ポラウデルを指導2で破って世界選手権で初優勝を飾ることになった。これにより、警視庁の阿武教子に続いて女子では2人目の柔道3冠(オリンピック、世界選手権、全日本選手権)達成者となった。12月の嘉納杯では初戦で中国の徐麗輝に指導1で敗れるが、その後敗者復活戦を勝ち上がって3位となった。 2008年4月の体重別決勝では立山を指導2で破ると、続く全日本選手権決勝では薪谷を3-0の判定で破って大会7連覇を達成して、2008年北京オリンピック代表に選出された。今回の優勝により、1987年から1992年まで大会6連覇を達成した田辺陽子の記録を上回り歴代最多優勝記録を更新することになった。8月の北京オリンピックでは準決勝でポラウデルを横四方固で破るなどオール一本勝ちで勝ち進み、決勝でも宿敵である地元の佟文から先に小外刈で有効を取るなど優位に試合を進めながら、残り8秒で一本背負投の逆転負けを喫して優勝を逃すことになった。
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北京オリンピックまで
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2005年2月にはフランス国際に出場するが、決勝でボッシュに指導3を取られて2位に終わった。2005年4月の体重別では、了徳寺学園職員の七條芳美から効果を取って勝ち、世界選手権代表に選ばれた。5月の実業柔道団体では、決勝でコマツの渡邊美奈に一本勝ちしてチームに優勝をもたらした。9月にエジプトのカイロで開催された世界選手権では、初戦でスラカに効果を取られて敗れ大会3連覇を逃すと、敗者復活戦でも裵恩惠に指導2を取られて敗れ、メダルを獲得できずに終わった。一方で、国別団体戦では3位となった。この時のふがいない敗戦がどうしても納得できなかったこともあり、「これは私じゃない、どんなことがあっても北京オリンピックまで現役を続ける」と決断した。 2006年4月の体重別では、決勝で岡に大外刈で一本勝ちして、アジア大会代表に選ばれた。6月の実業柔道団体では2位に終わった。12月にUAEのドーハで開催されたアジア大会では、初戦から今までに見せたことのない闘志を前面に剥き出した戦いぶりで勝ちあがり、決勝でも裵恩惠を序盤から圧倒して最後は小外刈で仕留めて、オール一本勝ちでの優勝を果たした。しかしながら、続く福岡国際決勝では渡邊に終盤大外刈からの横四方固で一本負けして2位に終わった。 2007年4月の体重別では、初戦で東海大学4年の今井優子に有効を取られて敗れたことによって、1999年から続いていた代表の座から外れることになった。5月の実業柔道団体決勝では、渡邊に背負投で一本負けして2位に終わった。9月の世界選手権でコマツの岡が初戦で敗れたのを見て、やはりこの階級は自分こそが適任者だと再確認したという。12月の嘉納杯では、準決勝でボッシュに効果で勝つと、決勝ではアメリカのロンダ・ラウジーをゴールデンスコアに入ってから大外刈の有効で破り、63kg級で谷本歩実に一本勝ちして優勝した順恵とともに姉妹優勝を果たした。続いて団体戦の愛媛国際親善女子柔道大会に日本代表で出場して優勝を果たした。 2008年2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でフランスのジブリズ・エマヌに裏投で一本負けするものの、3位決定戦では同じフランスのマリー・パスケから小外刈で一本勝ちして3位となった。4月の体重別では準決勝で岡に指導1を取られて3位に終わるが、北京オリンピック代表に選ばれた。続く済州島で開催されたアジア選手権では、決勝で韓国の朴佳軟から大外刈で技ありを取って優勝した。8月の北京オリンピックでは、燃えるような闘志がありながら、怖いくらいに冷静な状態でいられるという、かつて経験したことのない感覚を味わっていた。そのように精神的にとても充実していたことから、絶対に金メダルを取れると確信に近い気持ちを抱いていた。その初戦では朴佳軟を上四方固 2回戦で中国の王娟に内股、準々決勝でハンガリーのアネット・メサロシュに合技でそれぞれ一本勝ちすると、準決勝ではボッシュから内股で技ありを取って勝つと、決勝では2月のドイツ国際63kg級決勝で順恵が指導1で破っているキューバのアナイシス・エルナンデスから開始46秒の朽木倒で一本勝ちして、オリンピック2連覇を達成した。優勝した際にも表情を変えず畳から降りてきた上野に対して、初代表の時からずっと付いてきた女子代表監督の日陰暢年が「笑え、喜べ」と指示したことで、ようやく手を挙げて喜びの表情を示した。後に、「あれは無表情だったのではなく、技ありだったのか一本だったのか分からなかったからなんです」と述べている。また、同じ年である66kg級の内柴正人の試合を見ていたら、のびのびと自分のペースで試合を進めて2連覇を達成していたので、それを見て自分もいける、優勝できると思ったという。なお、北京オリンピック前には今大会に出場する外国選手23名全員の特徴を調べ上げて研究を施した結果、「私が一番強いと思います」と所属先の監督である柳沢久に宣言していた。柳澤もこれを受けて、「今は世界のどの選手もビデオなどで研究しているから、その上をいく新しい技も身につけなければならない。情報収集と分析は、自分で情報を集め、リポートを作成し考えることが重要」との認識を示した。また大会後には次のように語った。「雅恵選手は、オリンピック二連覇をしているが、単なる2つの金メダルではない。アテネで決めた技と北京で決めた技は全部違っている。世界の全選手が雅恵を目標に研究してきているので、同じ技では勝つことができない。雅恵には研究されたその上をいく練習があった」。
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北京オリンピックまで
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2005年4月の体重別では準決勝で福見に内股すかしで一本勝ちすると、決勝では北田に指導1で勝って世界選手権代表に選出されるが、GSに入って僅か27秒で守りに入っていたわけでもない北田のみに指導が与えられた点は疑問の残る裁定と報じる向きもあった。 しかし妊娠のため7連覇のかかっていた世界選手権は欠場した(北田が代役出場)。そして12月31日には長男を出産した。 復帰後初の大会である2007年4月の体重別では、準決勝で山岸から効果を取って勝つが、決勝では福見に出足払で有効を取られて敗れた。しかし、ここ2年間ではこの大会しか出場していなかったにもかかわらず、過去の実績が考慮されて世界選手権代表に選出された。9月にリオデジャネイロで開催された世界選手権では序盤から強豪との対戦が相次ぐ厳しい組み合わせとなったが、3回戦でジョシネ、準々決勝で中国の呉樹根に対してGSまでもつれこむもののそれぞれ効果と指導1を取って下すと、準決勝ではドゥミトルから大外刈で技ありを取り、決勝でもキューバのヤネト・ベルモイが朽木倒にきたところを払腰で切り返して有効を取って優勢勝ちして、2大会ぶり7度目の優勝を飾った。 2008年には北京オリンピックへの出場の意欲を見せ、4月には選抜体重別に出場した。準決勝で山梨学院大学2年の浅見八瑠奈を指導1で破ったのち、決勝戦で山岸絵美相手に先に送足払で効果を取るものの、その後、巴投と大外返で有効2つを取られて逆転負けを喫したが、これまでの実績からオリンピック代表に選ばれた。 夏季大会は5大会連続出場という、日本選手の最多連続記録を更新して臨んだ8月の北京オリンピック柔道競技では柔道競技初日に登場した。その初戦ではアメリカのサヤカ・マツモトを大外刈の有効、2回戦では地元の呉樹根をGSに入ってから小外刈の技あり、準々決勝ではアルゼンチンのパウラ・パレトを指導1でそれぞれ破った。そして、準決勝ではドゥミトルと対戦することになった。互いに組み手を嫌って牽制し合うなどして指導2となり、膠着状態となった残り33秒にスペイン出身の主審が谷にだけ指導3を与えると、谷はあからさまに不服そうな表情を浮かべるが、反撃むなしく試合終了となってオリンピック3連覇はならなかった。外国選手に負けたのはアトランタオリンピックの決勝以来12年ぶり、ヨーロッパの選手に負けたのはバルセロナオリンピックの決勝以来16年ぶりのことだった。対外国選手の連勝記録も61でストップした。その後の3位決定戦ではロシアのリュドミラ・ボグダノワに内股で一本勝ちを収めて、オリンピック5大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得した。なお準決勝に関して、全柔連強化委員長の吉村和郎や女子代表監督の日蔭暢年、女子代表コーチの園田隆二などからは、試合終盤になって谷にだけ指導3が与えられたことに疑問を呈する声が上がった。これに対して、オリンピックにおける日本女性初の審判員として今大会に参加した天野安喜子は次のような指摘を行った。「あの指導は勇気ある正しい判断であり、あの場面における指導は決して間違いではなかった。国内の大会なら終盤は流してGSにしてしまう傾向もあるが、インターナショナル審判員の場合は、審判員としての技量をこのような場面でこそ見られているという意識が働くので、例え残り10秒であっても反則がより妥当とみなせる側にきっちりと反則を与える。それがインターナショナル審判員としてのプライドでもある」。
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北京オリンピック(2008年)まで
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「室伏広治」の記事における「北京オリンピック(2008年)まで」の解説
2005年は第89回日本選手権にのみ出場、76m47で11連覇を達成。 2006年の第90回日本選手権では80m17で12連覇を達成。9月10日のワールドアスレチックファイナルでは81m42、16日のIAAFワールドカップではシーズンベストとなる82m01を投げて優勝。この年は出場した8試合すべてで優勝している。 2007年6月30日の第91回日本選手権では79m24で13連覇を達成。8月27日の世界陸上大阪大会では、決勝8人のうち7人が80メートル以上を記録する中80m46で6位に終わった。ワールドアスレチックファイナルでは77m95で3位。 2008年6月27日の第92回日本選手権では80m98で14連覇を達成。8月17日の北京オリンピック大会中は80m71で5位になったが、12月11日に2位:ワディム・デフヤトフスキーと3位:イワン・チホン(共に ベラルーシ)の2選手のドーピング違反が発覚、当該選手が国際オリンピック委員会理事会において失格、メダル剥奪処分を受けたため、一時は3位に繰り上がる裁定がスポーツ仲裁裁判所により下されたが、2010年6月10日に処分が撤回されたため銅メダル獲得はならなかった。9月14日のワールドアスレチックファイナルでは78m99で3位。
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