北京オリンピックまでとは? わかりやすく解説

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北京オリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 11:58 UTC 版)

谷本歩実」の記事における「北京オリンピックまで」の解説

2005年2月ドイツ国際では決勝でデコスに有効で敗れた4月体重決勝では上野指導1で敗れながらも世界選手権代表に選出された。9月カイロ開催され世界選手権では準決勝までオール一本勝ち勝ち進むものの、決勝ではデコスに朽木倒敗れて2位終わった11月講道館杯では決勝上野指導2で敗れた2006年2月ドイツ国決勝ではジョルニルを有効で破って優勝飾った4月体重決勝では東海大学平井希を合技で破るなどオール一本勝ちして、ドーハアジア大会代表に選出された。6月実業柔道団体ではチーム優勝貢献した9月ワールドカップ国別団体戦では準決勝フランス対戦するが、デコスに裏投げ敗れてチーム3位とどまった。この試合負けたものの、後の北京オリンピック決勝に次ぐ2番目に「やり切ったと言える充実した試合だったという。12月ドーハ開催されアジア大会では準決勝韓国の孔慈英に朽木倒敗れて3位終わった。続く福岡国際では準決勝中国の穴書に有効で敗れるなどして5位にとどまった2007年2月フランス国際では3位終わった4月体重別では上野GS入ってから小外刈技あり破り世界選手権代表に選出された。5月実業柔道団体では前年続いてチーム優勝貢献した9月リオデジャネイロ開催され世界選手権では準決勝ゴンサレス効果敗れたが、3位決定戦ドイツアナ・フォン・ハルニアー袖釣込腰破って銅メダル獲得した12月嘉納杯では決勝上野大外刈敗れた。この試合以前から負傷していた腰の具合悪化して一時は歩くのも困難な状況になったという。 2008年冬季ヨーロッパにおける国際大会には怪我のため出場しなかった。4月体重決勝では上野指導1で敗れながらも2008年北京オリンピック代表に選出された。女子代表監督日陰暢年によれば、この階級代表選考では揉めたものの、上野国際大会において技の掛け潰れが多い傾向にあり、一本を取る柔道出来ていないとする一方で谷本一本取れる技が備わっているので、例えポイントリードされていてもそれを覆せるだけの決定力があり、さらに大舞台経験何度もあるのでその点でも信用置けるというのが選出理由だと説明したしかしながら一連の代表選考大会においてライバルの上野に2連敗して(そのうち1つ一本負け)、なおかつ上野国際大会でも多く一本勝ち収めて好成績残しながら(プレオリンピック嘉納杯ドイツ国際で優勝フランス国2位20戦のうち14戦で一本勝ち)谷本の方が選出されたのは上野にとって「極めて気の毒」、あるいは「理不尽な評価」とする見方もあったものの、基本的にマスコミは同じ体重別の48kg級決勝トヨタ自動車谷亮子三井住友海上山岸絵美敗れながらもオリンピック代表選出され物議を醸すことになった一件のみを大きく取り扱うばかりで、63kg級における代表選考是非に注目することはほとんどなかった。 8月北京オリンピックでは、3回戦2年前のアジア大会敗れた孔慈英を崩上四方固準決勝では昨年世界選手権敗れたゴンサレス横四方固で破るなど全て寝技による一本勝ち勝ち上がると、決勝では2001年福岡国際優勢勝ちして以降7年近く勝っていなかった因縁のデコスと対戦することになった。だが、デコスが不用意に仕掛けた大内刈りすかして豪快な内股投げ飛ばし一本勝ちでの優勝成し遂げて柔道史上初の五輪大会連続オール一本勝ちによる金メダル獲得したオリンピック連覇した日本人柔道家には斉藤仁野村忠宏谷亮子内柴正人上野雅恵がいるものの、二大会連続全ての試合一本勝ち収めているのは谷本ただ一人である。ちなみに世界選手権では優勝こそないが、そこで勝った試合全て一本勝ちによる勝利である。

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北京オリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/01 08:59 UTC 版)

塚田真希」の記事における「北京オリンピックまで」の解説

12月福岡国際では決勝谷を崩上四方固で破るなど、今大会でオール一本勝ちして昨年に続く優勝飾った2005年2月フランス国際をオール一本勝ち制すると、4月体重別と全日本選手権決勝では昨年続いて谷を指導1と有効で立て続け破って世界選手権代表に選出された。9月カイロ開催され世界選手権では準決勝佟文後袈裟固敗れて3位とどまった団体戦中国戦でも佟文崩上四方固敗れたが、チーム3位となった2006年2月ドイツ国際では3位だったものの、4月体重別と全日本選手権決勝では後輩である東海大学立山真衣指導1と体落で立て続け破って優勝した9月パリ開催されワールドカップ国別団体戦では準決勝フランス戦一本勝ちしたものチーム敗れて3位とどまった12月ドーハ開催されアジア大会には当初78kg超級出場予定だったが、怪我のため出場取り止めた2007年2月フランス国際をオール一本勝ち制して2年ぶり2度目優勝を飾ると、4月体重決勝では谷を指導2、続く全日本選手権決勝では兵庫県警堀江久美子3-0判定破って世界選手権代表に選出された。9月リオデジャネイロ開催され世界選手権では、78kg超級決勝佟文指導1で敗れたものの、無差別では決勝スロベニアルツィヤ・ポラウデル指導2で破って世界選手権初優勝を飾ることになった。これにより、警視庁阿武教子続いて女子では2人目の柔道3冠(オリンピック世界選手権全日本選手権)達成者となった12月嘉納杯では初戦中国の徐麗輝に指導1で敗れるが、その後敗者復活戦を勝ち上がって3位となった2008年4月体重決勝では立山指導2で破ると、続く全日本選手権決勝では谷を3-0判定破って大会7連覇達成して2008年北京オリンピック代表に選出された。今回優勝により、1987年から1992年まで大会6連覇達成した田辺陽子記録上回り歴代最多優勝記録更新することになった8月北京オリンピックでは準決勝でポラウデルを横四方固で破るなどオール一本勝ち勝ち進み決勝でも宿敵である地元佟文から先に小外刈で有効を取るなど優位に試合進めながら、残り8秒で一本背負投逆転負け喫して優勝逃すことになった

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北京オリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/02 08:32 UTC 版)

上野雅恵」の記事における「北京オリンピックまで」の解説

2005年2月にはフランス国際に出場するが、決勝ボッシュ指導3を取られ2位終わった2005年4月体重別では、了徳寺学園職員七條芳美から効果取って勝ち、世界選手権代表に選ばれた。5月実業柔道団体では、決勝コマツ渡邊美奈一本勝ちしてチーム優勝もたらした9月エジプトカイロ開催され世界選手権では、初戦でスラカに効果取られ敗れ大会3連覇逃すと、敗者復活戦でも裵恩惠指導2を取られ敗れメダル獲得できずに終わった一方で国別団体戦では3位となった。この時のふがいない敗戦がどうしても納得できなかったこともあり、「これは私じゃない、どんなことがあっても北京オリンピックまで現役続ける」と決断した2006年4月体重別では、決勝で岡に大外刈一本勝ちして、アジア大会代表に選ばれた。6月実業柔道団体では2位終わった12月UAEドーハ開催されアジア大会では、初戦から今まで見せたことのない闘志前面剥き出した戦いぶりで勝ちあがり、決勝でも裵恩惠序盤から圧倒して最後小外刈仕留めて、オール一本勝ちでの優勝果たしたしかしながら、続く福岡国際決勝では渡邊終盤大外刈からの横四方固一本負けして2位終わった2007年4月体重別では、初戦東海大学4年今井優子に有効を取られ敗れたことによって、1999年から続いていた代表の座から外れることになった5月実業柔道団体決勝では、渡邊背負投一本負けして2位終わった9月世界選手権コマツの岡が初戦敗れたのを見て、やはりこの階級自分こそが適任者だと再確認したという。12月嘉納杯では、準決勝ボッシュ効果で勝つと、決勝ではアメリカロンダ・ラウジーゴールデンスコア入ってから大外刈の有効で破り、63kg級で谷本歩実一本勝ちして優勝した順恵とともに姉妹優勝果たした続いて団体戦愛媛国際親善女子柔道大会日本代表出場して優勝果たした2008年2月にはフランス国際に出場するが、準決勝フランスジブリズ・エマヌ裏投一本負けするものの、3位決定戦では同じフランスのマリー・パスケから小外刈一本勝ちして3位となった4月体重別では準決勝で岡に指導1を取られ3位に終わるが、北京オリンピック代表に選ばれた。続く済州島開催されアジア選手権では、決勝韓国軟か大外刈技あり取って優勝した8月北京オリンピックでは、燃えるような闘志ありながら、怖いくらいに冷静な状態でいられるという、かつて経験したことのない感覚味わっていた。そのように精神的にとても充実していたことから、絶対に金メダル取れると確信に近い気持ち抱いていた。その初戦では佳軟を上四方固 2回戦中国の王娟に内股準々決勝ハンガリーアネット・メサロシュに合技でそれぞれ一本勝ちすると、準決勝ではボッシュから内股技あり取って勝つと、決勝では2月ドイツ国際63kg級決勝で順恵が指導1で破っているキューバアナイシス・エルナンデスから開始46秒の朽木倒一本勝ちして、オリンピック2連覇達成した優勝した際にも表情変えず畳から降りてきた上野に対して初代表の時からずっと付いてきた女子代表監督日陰暢年が「笑え喜べ」と指示したことで、ようやく手を挙げて喜び表情示した。後に、「あれは無表情だったではなく技ありだったのか一本だったのか分からなかったからなんです」と述べている。また、同じ年である66kg級の内柴正人試合見ていたら、のびのび自分ペース試合進めて2連覇達成していたので、それを見て自分もいける、優勝できる思ったという。なお、北京オリンピック前には今大会出場する外国選手23全員特徴調べ上げ研究施した結果、「私が一番強いと思います」と所属先の監督である柳沢久宣言していた。柳澤もこれを受けて、「今は世界のどの選手ビデオなどで研究しているから、その上をいく新しい技も身につけなければならない情報収集と分析は、自分情報集めリポート作成し考えることが重要」との認識示した。また大会後には次のように語った。「雅恵選手は、オリンピック二連覇をしているが、単なる2つ金メダルではない。アテネ決めた技と北京決めた技は全部違っている。世界の全選手が雅恵を目標研究してきているので、同じ技では勝つことができない。雅恵には研究されたその上をいく練習があった」。

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北京オリンピックまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:27 UTC 版)

谷亮子」の記事における「北京オリンピックまで」の解説

2005年4月体重別では準決勝福見内股すかし一本勝ちすると、決勝では北田指導1で勝って世界選手権代表に選出されるが、GS入って僅か27秒で守り入っていたわけでもない北田のみに指導与えられた点は疑問の残る裁定報じる向きもあった。 しかし妊娠のため7連覇かかっていた世界選手権欠場した北田代役出場)。そして12月31日には長男出産した復帰後初の大会である2007年4月体重別では、準決勝山岸から効果取って勝つが、決勝では福見出足払で有効を取られ敗れた。しかし、ここ2年間ではこの大会しか出場していなかったにかかわらず過去の実績考慮され世界選手権代表に選出された。9月リオデジャネイロ開催され世界選手権では序盤から強豪との対戦相次ぐ厳しい組合わせとなったが、3回戦ジョシネ準々決勝中国呉樹根に対してGSまでもつれこむもののそれぞれ効果指導1を取って下すと、準決勝ではドゥミトルから大外刈技あり取り決勝でもキューバヤネト・ベルモイ朽木倒にきたところを払腰切り返して有効を取って優勢勝ちして、2大会ぶり7度目の優勝飾った2008年には北京オリンピックへの出場意欲見せ4月には選抜体重別に出場した準決勝山梨学院大学2年浅見八瑠奈指導1で破ったのち、決勝戦山岸絵美相手先に送足払効果を取るものの、その後巴投大外返で有効2つ取られ逆転負け喫したが、これまでの実績からオリンピック代表選ばれた。 夏季大会は5大会連続出場という、日本選手最多連続記録更新して臨んだ8月北京オリンピック柔道競技では柔道競技初日登場した。その初戦ではアメリカサヤカ・マツモト大外刈の有効、2回戦では地元呉樹根GS入ってから小外刈技あり準々決勝ではアルゼンチンパウラ・パレト指導1でそれぞれ破った。そして、準決勝ではドゥミトルと対戦することになった互いに組み手嫌って牽制し合うなどして指導2となり、膠着状態となった残り33秒にスペイン出身主審が谷にだけ指導3を与えると、谷はあからさまに不服そうな表情浮かべるが、反撃むなしく試合終了となってオリンピック3連覇はならなかった。外国選手負けたのはアトランタオリンピック決勝以来12年ぶり、ヨーロッパ選手負けたのはバルセロナオリンピック決勝以来16年ぶりのことだった。対外国選手の連勝記録61ストップしたその後3位決定戦ではロシアのリュドミラ・ボグダノワに内股一本勝ち収めてオリンピック5大会連続メダルとなる銅メダル獲得した。なお準決勝に関して全柔連強化委員長吉村和郎女子代表監督日蔭暢年女子代表コーチ園田隆二などからは、試合終盤になって谷にだけ指導3が与えられたことに疑問を呈する声が上がった。これに対してオリンピックにおける日本女性初の審判員として大会参加した天野安喜子次のような指摘行った。「あの指導勇気ある正しい判断であり、あの場面における指導決し間違いではなかった。国内の大会なら終盤流してGSにしてしまう傾向もあるが、インターナショナル審判員場合は、審判員として技量このような場面でこそ見られているという意識が働くので、例え残り10秒であっても反則がより妥当とみなせる側にきっちり反則与える。それがインターナショナル審判員としてプライドでもある」。

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北京オリンピック(2008年)まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 03:09 UTC 版)

室伏広治」の記事における「北京オリンピック(2008年)まで」の解説

2005年第89回日本選手権にのみ出場、76m47で11連覇達成2006年第90回日本選手権では80m17で12連覇達成9月10日のワールドアスレチックファイナルでは81m42、16日IAAFワールドカップではシーズンベストとなる82m01を投げて優勝この年出場した8試合すべてで優勝している。 2007年6月30日第91回日本選手権では79m24で13連覇達成8月27日世界陸上大阪大会では、決勝8人のうち7人が80メートル以上を記録する中80m46で6位に終わった。ワールドアスレチックファイナルでは77m95で3位2008年6月27日第92回日本選手権では80m98で14連覇達成8月17日北京オリンピック大会中は80m71で5位になったが、12月11日2位ワディム・デフヤトフスキー3位イワン・チホン(共に ベラルーシ)の2選手ドーピング違反発覚当該選手国際オリンピック委員会理事会において失格メダル剥奪処分受けたため、一時3位繰り上がる裁定スポーツ仲裁裁判所により下されたが、2010年6月10日処分撤回されたため銅メダル獲得はならなかった。9月14日のワールドアスレチックファイナルでは78m99で3位

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