北京オリンピックは補欠代表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 09:12 UTC 版)
「藤原新」の記事における「北京オリンピックは補欠代表」の解説
2004年4月、同じ拓殖大陸上部所属だった高田千春らと共に東日本旅客鉄道(JR東日本)に入社。八王子支社総務部総務課に勤務しながら、前年創設されたばかりのJR東日本ランニングチームに所属 し、競技活動を行う。5000m走・10000m走などで実績を積むとともに、全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)にはチーム初出場の第49回大会(2005年)で1区を任され、その後エース区間に起用されるなどの活躍を見せる。 2007年3月4日の第62回びわ湖毎日マラソンが初マラソン。しかしこのときはレース中に腹痛と足のマメに悩まされて、2時間38分37秒の85位と完走がやっとであった。 2008年2月17日の東京マラソン2008の選考会の部(北京オリンピック男子マラソン日本代表選考レース)に一般参加で2回目のマラソン出場。このときはフルマラソン記録での参加資格(2時間30分以内)を満たさずハーフマラソンの記録で何とか参加資格を得たが、本人曰く「とにかく先頭についていけるところまで行こうと思った」 というレース運びでくらいつく。レース終盤で脹ら脛が痙攣するアクシデントに何度も見舞われながら、優勝したビクトル・ロスリン( スイス)に次ぐ日本人トップの第2位でフィニッシュ。自己記録を約30分も更新する、2時間8分40秒のタイムをマークし、一躍北京オリンピックの代表候補に名乗り出た。結果的に世界陸上大阪大会男子マラソンで5位入賞した尾方剛(中国電力)と3番目の争いに惜しくも敗れ、補欠での選出となりオリンピック出場はならなかった。
※この「北京オリンピックは補欠代表」の解説は、「藤原新」の解説の一部です。
「北京オリンピックは補欠代表」を含む「藤原新」の記事については、「藤原新」の概要を参照ください。
- 北京オリンピックは補欠代表のページへのリンク