初マラソン
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大阪国際女子マラソン@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}本番2日前の2008年1月25日、[要出典]外国・国内の招待参加選手らとは別に、福士ひとりだけの記者会見が開かれた(通常は招待参加で選ばれた有力選手のみ記者会見に参列するが、一般参加選手が会見に臨むのは異例である)。 2008年1月27日に開催された大阪国際女子マラソンでは、スタート直後に長居陸上競技場を先頭で駆け出してから大阪城公園を出る30km付近まで、福士がハイペースで後続を大きく突き放し、一時は2位集団を2分以上引き離し独走する展開となった。しかし30km地点を過ぎた辺りから、スタミナ切れを起こして急激にペースダウン。その後34km過ぎでは優勝したマーラ・ヤマウチ(セカンドウィンドAC)や2位の森本友(天満屋)らに抜かれると、35km以降からほとんどジョギング状態が続いて十数人の選手に次々と追い抜かれていく。それから福士はフラフラの状況で走り続ける中、さらに40kmを過ぎた長居陸上競技場へ入る手前の、ゴールまで残り570m付近では足がもつれて1度転倒、そして競技場へ入ってからは3度も転倒してしまう。それでも2時間40分台のタイムでようやくゴールラインにたどり着いたが、着順は結局19位と惨敗に終わった。 レース終盤、40km地点を過ぎた長居陸上競技場の周回道路では、明らかに意識朦朧で足を動かすのが精一杯の福士に対し、ワコールの永山忠幸監督が「もうやめてもいいよ」と叫びながら併走を続けていたが、それでも福士は「ゴールさせて下さい」と監督の制止を振り切るようにゆっくり走り続けた。しかしその後合計4回も転倒する。競技場のスタンドで観戦していた、福士の母親は「もう止めさせて!」と泣きながら絶叫、父親は福士の懸命の完走に「よく頑張った。でも見ているのが辛かった…」と福士の状態を心配そうに語った[要出典]。一方、ゴール後の福士自身は「大阪城公園の下り坂付近で、急に目の前が真っ暗になった。競技場が見えてからは頭の中が真っ白になり、記憶がなくなった」「ご心配をお掛けして済みません。でも(初マラソンは)面白かったかな。アハハ…」と笑いながら競技場を後にしていた。 この大阪国際における福士の敗因について、当日テレビ中継でゲスト解説者だった有森裕子(元リクルート、バルセロナ五輪銀・アトランタ五輪銅メダリスト)は「大体30km程度までの距離であれば、そのままスピードで押し切れてしまうんです。しかしそこから先になると、どんな人間でもスタミナが尽きて駆け引きの勝負になる」と述べ、福士の経験不足から来るペース配分のミスを指摘した[要出典]。また福士はマイペース調整を重んじるあまり、練習でも40km以上の距離を継続して走った経験がなかったことが報道により明らかになった。レース数日経ってからのインタビューでは、「とても良い経験をさせてもらいました。マラソンに挑戦したことに後悔はありません。ゴール後のタオルが欲しかったので、何時間掛かっても何回転んでも完走するつもりでした。もし途中で辞めてたら、『名古屋(国際女子マラソン)走ります』と言って名古屋の練習をしてるかも知れませんよ」と時折苦笑いを浮かべながら感想を笑顔で語っていたが、後年フルマラソン復帰に際して、福士本人も「当時はマラソンを甘く考えていた。反省している」と語り、準備不足で臨んだことを認めている。[要出典] 福士は大阪の後にもう1戦フルマラソンへの参加をほのめかすが、時期的な問題から北京五輪女子マラソンの代表枠がほぼ埋まってしまい断念[要出典]。その後のフルマラソン出走に関しては、3年9か月にわたって封印することとなった。
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