初マラソン - 大阪国際女子マラソンで2位
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「松野明美」の記事における「初マラソン - 大阪国際女子マラソンで2位」の解説
1991年世界陸上東京大会では、10000mに出場した松野は故障上がりということもあり予選12位に終わり、決勝進出は成らなかった。予選レース後の記者会見では泣きながら「この小さな身体でよく頑張った自分を褒めてやりたい」とコメント、今後は長距離トラック競技からフルマラソン種目に転向する事を表明する。 松野自身初マラソン挑戦となった1992年1月、バルセロナオリンピック・女子マラソンの代表選考レースを兼ねた大阪国際女子マラソンでは、スタート直後から積極的に日本人首位争いの集団に加わっていた。だが、大阪城公園内に入った26Km地点を過ぎた辺りで、先頭を走る小鴨由水と浅利純子(共にダイハツ工業所属)らのハイペースについていかず、カトリン・ドーレ( ドイツ)と朝比奈三代子(旭化成)の第2集団に待機する。33Km過ぎ、松野はその第2集団から自ら抜け出してロングスパートを開始。残り5Km付近(約37.2Km地点)でペースダウンした浅利らを抜き去り、独り首位をひた走る小鴨を必死に追い掛けるも、その差が全く縮まらないままゴール地点の長居陸上競技場へ。松野と同じくこの大阪国際が初マラソンだった小鴨が、2時間26分26秒でレース当時の日本女子最高記録と及び初マラソン世界最高記録をマークして初優勝を果たし、それから36秒後に松野も日本最高記録(当時は有森裕子の2時間28分01秒)を59秒上回る、2時間27分02秒の好記録で2位に入る。この結果を受け、前1991年8月開催の世界陸上東京大会・女子マラソンにおいて2時間29分57秒で日本女子トップの2位入賞・銀メダル獲得により、既に日本代表に内定していた山下佐知子と、大阪国際女子マラソン優勝者・小鴨の二人と共に、松野も女子マラソンの種目で「バルセロナ五輪代表入りはほぼ確実」とも言われていた。
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