初マラソン後
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その後は、本職である長距離トラック競技で五輪切符を目指すこととなった。シーズン初レースの6月2日の新潟選抜競技会の10000mは、32分22秒18の6位に終わったが、6月11日のホクレンディスタンスチャレンジ・深川大会の10000mでは、五輪参加標準A記録を上回る31分30秒94で優勝。 優勝すれば北京五輪代表内定となる6月27日の日本選手権の10000mでは、渋井陽子と赤羽有紀子(ホクレン)らの激しい競り合いを展開し、勝負はラスト1周まで持ち込まれたが、渋井(優勝)・赤羽(2位)のラストスパートに遅れを取って3位(31分18秒79)と敗れ、五輪内定には至らなかった。また、2002年より続いていた福士の日本選手権10000mでの連覇も6でストップした。6月29日の5000mも小林祐梨子(豊田自動織機・優勝)と赤羽(2位)に敗れて3位(15分16秒27)に終わったが、翌6月30日の日本陸連理事会で北京五輪代表に選出、2大会連続の五輪代表入りを果たした。この時期の福士について、監督の永山は「気持ちの問題。守りに入ってしまった」とのちに述べている。 北京オリンピック本番は、8月15日に10000mへ出走。序盤から超高速のペースに積極果敢についたものの中盤辺りで脱落。8位入賞には届かなかったがなんとか周回遅れは免れ、31分01秒14の11位に入った。これは日本の代表3選手(他渋井・赤羽)の中では最も上位の成績であった。8月19日の5000m予選にも出場したが、15分20秒46で組の10位に終わり、決勝進出はならなかった。 2009年の日本選手権では順位としては振るわなかったものの、それまでに派遣標準記録をクリアしていたことから、世界陸上4大会連続出場権獲得を果たした。8月の世界陸上ベルリン大会では10000mの1種目のみに出場、初の1ケタ順位となる9位でゴールするも、同じ日本代表で7位入賞を果たした中村友梨香(天満屋)に先を越され、入賞ラインには及ばなかった。 11月のFUKUIスーパーレディス駅伝では「突っ込んで死ぬつもりで」出場して区間賞を獲得、復調の手応えをつかむ。 12月13日の全日本実業団対抗女子駅伝では3区に出場し、12人抜きでチームをトップで襷を手渡して通過。1998年にエスタ・ワンジロ(当時日立)が記録した、31分10秒の大会記録を11年ぶりに更新する[要出典]31分02秒の区間新記録をマークした。 2010年6月の日本選手権では5000m・10000mともに、2007年以来3年ぶりとなる2種目制覇を果たした。7月にFNNスーパーニュースアンカー(関西テレビ)の番組取材放映で、日本国内の現役女子選手達は「次のロンドンオリンピックの女子マラソンで金メダルを狙えるのは福士」だと口を揃えていた。当時の福士本人は「まあまたいつかはマラソンに挑戦しようかな、とは思いますけどね。今度は転ばないように…」と述べた。[要出典] 2連覇を期待された11月の広州アジア大会の10000mでは、終盤プリージャ・スリードハランらインド勢のスパートについていけず4位と敗れる。続く5000mでも5位に終わり、結局2種目ともにメダルを獲得することはできなかった。 4年ぶりに出走した、2011年2月6日の第65回香川丸亀国際ハーフマラソンでは、1時間9分00秒の記録で通算3回目の優勝となった。また同年5月1日出場の米カージナル招待10000mでは、自身2番目の記録となる30分57秒90をマーク。しかし6月の日本選手権は、5月上旬に左足甲の良性腫瘍を摘出手術後、回復が思わしくないため欠場を表明。世界陸上大邱大会代表選出は絶望となり、福士の世界陸上選手権への連続出場は4大会でストップした。
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