学生時代~初マラソン挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 14:12 UTC 版)
「君原健二」の記事における「学生時代~初マラソン挑戦」の解説
出生当時、実家は小倉市(現・北九州市小倉北区)で小間物屋を営んでいた。5人兄弟の3番目で、姉、兄、弟2人がいる。中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校(現・福岡県立ひびき高等学校)時代はインターハイでも予選落ちを経験するなどとりわけ目立った選手ではなく、高校を卒業後の就職活動も思わしくない中、八幡製鐵(現在の日本製鉄)より陸上部の長距離を強化する目的でスカウトされ、卒業直前にようやく入社が決まったという。ここでコーチの高橋進から指導を受けて、マラソンランナーとして成長する。 初マラソンは1962年の朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)で、3位に入賞。1963年の東京プレ五輪では競技場に入ってからベルギーのバンデンドリッシュを抜いて2着。その後も好成績を重ね、1964年の東京オリンピックの代表に選ばれる。この当時の君原を題材とした記録映画『あるマラソンランナーの記録』が黒木和雄の監督で製作されている。
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