中央競馬時代
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「ハクセツ (1965年生)」の記事における「中央競馬時代」の解説
中央初戦は池上昌弘を背に福島開催のオープン戦に出走。2番人気に支持されたが、5頭立て4着に終わった。次走の条件戦から、高橋の弟弟子であり、当時2年目の若手だった岡部幸雄に乗り替わりとなる。この競走で岡部は後方待機策を採ると、直線で追い込みを見せて先行勢を差し切り、中央初勝利を挙げた。 休養の後に秋の東京開催へ移り、オープン戦6着を経て牝馬東京タイムズ杯へ出走。優駿牝馬(オークス)優勝馬ルピナスなど強豪が揃い、ハクセツは49kgの軽量ながら16頭立て9番人気という低評価であった。しかし最後方待機から直線だけで全馬を交わして優勝し、重賞初制覇を果たした。これは岡部、高橋の双方にとっても初めての重賞勝利であり、岡部はこれを起点に引退まで171の重賞に勝利している。次走の金杯(東)では天皇賞・秋2着馬フイニイなど牡馬の一線級と初対戦となったが、前走と同様に後方から先行勢を差し切り、重賞2連勝を遂げた。 この後、2戦の反動から調子を落とし、以後3連敗を喫する。しかし4月末の府中特別で復活勝利を挙げると、6月に安田記念(当時ハンデキャップ競走)に出走。当日3番人気に推され、レースでは中団待機から直線で先頭に立った。しかし僅かにスパートが早く、ゴール寸前でハードウエイに差され、ハナ差の2着に終わった。 次走のオープン戦以来勝利から遠ざかったが、翌1970年7月に出走した七夕賞で、第3コーナーからの捲りを見せて、レコードタイムでの優勝を果たした。七夕賞は後に妹のジョセツがこの記録を破るレコードで勝利しており、姉妹制覇を達成している。以後は4戦して毎日王冠の3着が最高、11月に出走した牝馬ステークスでの最下位14着を最後に競走生活から退いた。
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中央競馬時代
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ナムラコクオーのデビューは1993年9月19日である。デビュー戦と2戦目の新馬戦をともに2着し、3戦目の未勝利戦で勝ち上がった。その後も順調に勝ち星をあげ、その年のラジオたんぱ杯3歳ステークスに駒を進めた。同競走ではここまで5戦2勝2着3回の好成績にも関わらず、全てダート競走だったことが嫌われたのか6番人気にとどまった。しかしそれに反発するように人気馬を抑えて重賞初勝利を挙げる。翌1994年、初戦のシンザン記念を制し、ナムラコクオーは既に朝日杯3歳ステークスを制していた同世代のナリタブライアンの対抗1番手として期待された。皐月賞トライアルの弥生賞でも1番人気に推されたが3着に敗れ、同時に屈腱炎を発症してしまい皐月賞は回避することとなった。 一時は春シーズンは絶望とされたが症状は軽く(すぐ復帰できたことから屈腱炎は誤診では無いかという意見が多く出た)NHK杯で復帰するとヤシマソブリンを破り復帰初戦を飾った。そして打倒ナリタブライアンを目指して東京優駿(日本ダービー)に出走する。ナムラコクオーは2番人気とはいえ単勝のオッズは8.6倍に過ぎず、レースでは10馬身以上はなされた6着に終わった。不幸なことに競走中に骨折しており、その後マイル路線に標準を定めて秋はスワンステークスからの復帰を予定したが、屈腱炎を再発し休養に入る。 復帰には2年近くかかり、1996年2月の仁川ステークスに出走。だがナムラコクオーの傷跡は大きく、次走の産経大阪杯では最下位に敗れた。起死回生策としてダートのプロキオンステークスへ矛先を変えると実に2年ぶりの勝利をものにした。だが、京王杯スプリングカップ13着、かしわ記念4着を経てまたもや脚部不安を発症した。経過は思わしくなく中央登録を抹消され高知競馬場に移籍することになる。
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中央競馬時代
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中山の稗田敏男厩舎よりセイザンの名でデビューするが、3歳時は7戦して1勝を挙げたのみ。4歳時も東京優駿への出走こそ果たしたが27頭中13着に終わるなど、芳しい戦績を残すことはできなかった。結局、4歳秋には大井競馬場の小暮嘉久調教師のもとへと転出している。中央競馬時代の通算戦績は22戦3勝、獲得賞金113万1000円。
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中央競馬時代
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3月1日、JRA騎手としての初騎乗を迎え、2戦目で「初勝利」を挙げた(この時点でJRA通算191勝目)。さらに翌週からはチューリップ賞、中京記念、フィリーズレビューと重賞を3連勝。さらに30日にはビリーヴで高松宮記念を制し、1カ月足らずのうちにGI初制覇を果たした。勝己は「GIレースの制覇はライデンリーダーとのコンビで中央に参戦した頃からの夢だったから、嬉しさは格別だった。周囲からは淡々としているように見えたと言われたけど、やはり感慨深いものがあった」などと語っている。さらに秋にはザッツザプレンティで菊花賞を制し、クラシック競走を初制覇。同馬とは春の皐月賞からコンビを組んでおり、ライター・評論家の亀谷敬正は、勝己が「皐月賞で掴んだリズムをダービーに活かし、夏休みを挟んで、ザッツの成長を秋に調教で感じ取り、菊花賞では思い切った騎乗を見せ」たとして、「菊花賞制覇は、安藤勝己騎手が中央入りができたら『続けて馬に乗りたい』『調教に乗りたい』という2つの夢が叶ったからこそ、実現したといえる」と評している。この年、勝己は実働10カ月のうちに重賞10勝を含む112勝を挙げ、勝利度数ランキングで3位につける活躍をみせた。 2004年は2月にアドマイヤドンでフェブラリーステークスを制覇。3月に同馬でドバイワールドカップに騎乗(8着)。春にはキングカメハメハでNHKマイルカップを制したのち、さらに同馬と共に臨んだ東京優駿(日本ダービー)にも優勝、移籍2年目にしてダービージョッキーとなった。「騎手ならば誰もが憧れる」といわれる競走であるが、勝己は「ずっとJRAで乗っていた人と違って、ダービーにそれだけ深い思い入れがないというか、実感がない。騎手を辞めたときにダービーを勝ったというのが凄いことだと感じると思う」との感想を述べた。ただし、競走前に受けたインタビューにおいては「前はGIはどれも一緒だと思ってたけど、去年(2003年にザッツザプレンティで)3着に負けて、その横で(ネオユニヴァースで)勝ったデムーロがすごい歓声で迎えられるのを見て、やっぱりダービーは違うなあと思ったね」と語っている。さらにその翌週にはツルマルボーイで安田記念を制し、上半期だけでGI4勝という成績を残す。年間では前年を上回る127勝を挙げた。 2005年には104勝とやや数字を落としたが、スズカマンボで天皇賞(春)を制覇。絶好位から終始スムーズにレースを進め、「GIでの会心の騎乗」と自賛する、13番人気での勝利であった。2006年には、かつてライデンリーダーで敗れた桜花賞をキストゥヘヴンで初制覇。後に「自分の中に残っているものがあったから、余計に嬉しかった」と振り返っている。また当年はダイワメジャーで天皇賞(秋)とマイルチャンピオンシップも制した。 2007年にはサンライズバッカスでフェブラリーステークスを制したのを皮切りに、ダイワメジャーの半妹・ダイワスカーレットで桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯を、ダイワメジャーで安田記念とマイルチャンピオンシップを制し、JRA最多タイ記録のGI(JpnIを含む)6勝を挙げた。11月17日には史上2位記録である騎乗機会6連勝を遂げるなど、年間勝利数では中央移籍後最多の136勝(全国3位)、地方・国外の成績を合わせた勝率では2割3分6厘7毛を記録し、過去5年間、JRA賞の騎手タイトルを独占していた武豊を抑え、最高勝率騎手となった。なお、当年には光彰が、経営危機が伝えられていた笠松から中央へ移籍し、兄弟で中央の騎手となった。 2008年にはブエナビスタで阪神ジュベナイルフィリーズを制覇、年末にはダイワスカーレットでグランプリ・有馬記念制覇を果たした。牝馬の優勝は1971年のトウメイ以来37年ぶり、史上4頭目の記録であった。なお当年勝己は勝利数4位(1位武豊)、勝率2位(同前)、獲得賞金3位とJRA賞では無冠であったが、最多賞金獲得騎手は勝己に続いて地方から中央入りした岩田康誠(兵庫出身)が武豊を抑えて獲得、前年3月から中央入りした内田博幸(大井出身)も全部門で4位以内と急激に台頭し、地方競馬出身騎手の躍進が目立った年となった。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 2009年桜花賞 2009年優駿牝馬 2009年にはブエナビスタで桜花賞と優駿牝馬(オークス)を制覇。この頃から騎乗数を抑えはじめ、勝利数はJRA移籍後はじめて100勝を切る87勝にとどまったが、勝率では2割1分6厘を記録し自身2度目の最高勝率騎手となった。翌2010年1月30日には、中央競馬史上24人目となる騎手通算1000勝を達成。これにより史上初の中央・地方双方での1000勝を合わせて達成した。また、5月にはダノンシャンティでNHKマイルカップを制覇している。2011年にはマルセリーナで桜花賞4度目の勝利を挙げた。51歳0カ月14日での勝利はクラシック競走の最年長勝利記録となった。その後、2012年11月24日の京阪杯でパドトロワに騎乗したのを最後に、レースでその姿をみせることがなくなる。
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中央競馬時代(2013年 - 2017年)
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「キタサンミカヅキ」の記事における「中央競馬時代(2013年 - 2017年)」の解説
2013年3月に中山競馬の新馬戦でデビュー。堅実な末脚を武器に好走を続けるものの、常に相手なりに走るタイプであるのと同時に癖馬の騎乗に定評のあった主戦の武士沢友治をして「危険な馬」と言わしめる気性が災いし、条件戦をなかなか勝ち切ることが出来なかった。 明け6歳になった2016年の1月にようやくオープン入りを果たすと、初戦をブルドッグボスの二着に好走し、続く京葉ステークスでは三頭並んだ追い比べを制してオープン初勝利を飾った。しかしこの一戦以降は未勝利に終わり、7歳になった2017年の夏に南関東の船橋競馬に移籍した。
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中央競馬時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:12 UTC 版)
中央初戦は鞍上に河内洋を迎え、朝日チャレンジカップに出走した。11頭立ての7番人気で挑んだこのレースでは、重馬場で行われた中で最後方からの差し切り勝ちを収め、移籍初戦での重賞制覇を果たす。以降、河内が主戦騎手を務めた。次走は天皇賞(秋)に出走し、5番人気ながらメジロティターンのレコードタイム優勝から1馬身半差の2着に入った。 続く国際招待競走のジャパンカップでは、来日した外国勢の顔触れが、日本の筆頭格が軒並み惨敗した前年第1回競走を遙かに凌ぐものとなり、日本からの出走馬は15頭中わずか5頭だった。その中で優勝馬ハーフアイストから0.3秒差、日本馬最先着の5着となった。年末の有馬記念ではアンバーシャダイ、メジロティターンに続く3番人気に支持される。しかしレースではスタート直後に他馬に挟まれる不利があり、後方2番手からの競馬となる。最後の直線に入った時点でもほぼ最後方の位置におり、手綱を取った河内自身も「これは駄目だ」と感じていた。しかしヒカリデュールはそこから一気の追い込みを始め、短い直線で抜け出したアンバーシャダイをゴール直前でアタマ差かわして優勝、八大競走制覇を果たした。この年の活躍が評価され、1982年の年度代表馬に選出される。地方出身馬の年度代表馬は オンスロート以来20年振り、サラ系出身馬としては史上初であった。 翌年も現役を続行し、平場オープン戦を3着、大阪杯1着の後、迎えた天皇賞(春)でも3番人気に推される。河内も「きっと期待に応えてくれるはず」と自信を持ってレースに臨んだ。しかしながら、2周目の向正面手前で故障を発生し競走中止。前第1指節複骨折で競走能力喪失と診断され、競走馬引退となった。
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中央競馬時代(1989-90年)
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「イナリワン」の記事における「中央競馬時代(1989-90年)」の解説
2月11日、京都競馬場のすばるステークス(OP)に小島太が騎乗して中央競馬デビュー。折り合いを欠いて入れ込みながらの追走となり、直線には2番手で差し掛かったが、以降は伸びず4着。小島は「はじめての芝と道悪で条件が厳しかった。(後略)」としている。続く3月12日の阪神大賞典(GII)でJRAの重賞初出走。後方待機から、最後の直線で追い上げにかかったが、スルーオダイナの斜行で進路妨害を受けて6位入線。スルーオダイナの失格処分により繰り上がり、5着となった。
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