中央競馬所属時代
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1986年3月30日、阪神競馬場のダート1700メートルの未出走戦でデビュー。2着に7馬身差をつけ初戦を飾った。次走こそ初の芝レースで11着と大敗するも、3戦目はダートに戻って2勝目を挙げた。この後、芝競走を2戦使われたがいいところ無く敗れ、笹針を打って休養に入った。 秋以降は、ダート戦に絞ってレースを使われるようになる。復帰戦でいきなりの勝利を挙げると、連闘で挑んだ準オープン戦は5着と、ダートで初の敗戦を喫したが、次走は2着に2馬身半差をつける危なげない勝ち方でオープン入りを果たした。重賞初挑戦となったウインターステークスでは、この年の最優秀ダートホースとなるライフタテヤマに歯が立たず、2着を確保するまでだったが、年明け初戦の平安ステークス(オープン)を確実に勝利し、古馬となっての飛躍が期待された。しかし、続く仁川ステークスをフレグモーネのため出走取り消しを余儀なくされると、2週間後の帝王賞でも調子が戻りきらず、テツノカチドキの11着と大敗を喫した。 この後持病の裂蹄が悪化し、笠松競馬場の外厩で休養に入った。この時に笠松側からフェートノーザンの移籍を打診。当時の中央では、目標となるダート競走が限られていたため、活躍の場を求めてこれに応じることとなった。
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中央競馬所属時代
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この後は、予定通り7月22日に中央入りし、美浦トレーニングセンターの稲葉幸夫厩舎に入厩。調教での動きも良く、8戦8勝と無敗での中央入りだったことから「ハイセイコーの再来」とも称された。 中央での初戦となったのは、10月のセントライト記念。皐月賞優勝馬のアズマハンターに単勝1番人気を譲り、デビュー以来初めて2番人気に甘んじたが、レースでは、4コーナーで並びかけようとするアズマハンターを直線で引き離し、同馬に3馬身差をつけて優勝した。 鮮烈な中央デビューを飾ったホスピタリテイだったが、クラシック登録をしていなかったため菊花賞への出走権が無かった。この後はジャパンカップを目標として、東京競馬場の国際競走のオープン戦に出走。逃げ切りを図ったが、前年のジャパンカップで2着に入ったカナダ調教馬フロストキングの末脚に屈し2着に敗れると、左前繋靭帯炎を発症。長期休養に入ることとなった。 翌1983年10月のオータムスプリントステークスで復帰し、単勝1番人気に応えて逃げ切り勝ちを収めた。しかし、競走中に左前繋靭帯炎が再発し、予定していたジャパンカップ、有馬記念を断念。脚部不安には勝てず引退することとなった。
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