中央移籍後
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中央競馬に移籍した2006年には、デルタブルースとのコンビで豪州のメルボルンカップ(GI)に挑戦、岩田にとってこれが初めての海外遠征であったが、それをものともせず勝利をおさめた。 2012年、ディープブリランテで東京優駿を初制覇、ダービージョッキーとなる。この年にはロードカナロアで香港スプリントにも勝利し、日本馬として初めて香港スプリントを制した。 2018年7月15日の函館第3競走をナイルデルタで1着となり、JRA通算1500勝を達成した。 2020年には新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から移動が禁止されている育成牧場に乗りに行き、これは始末書を提出する騒動となった。 2021年4月24日、スウィープザボードに騎乗して臨んだ阪神競馬第6レース開始前の返し馬の際に、テイエムマジックに騎乗していた藤懸貴志に対して鞭を使って威嚇したのち馬をラチ沿いに寄せ、藤懸に対して暴言を吐いたことが明らかとなった。同じ日の第2レースにおける藤懸騎乗の馬の位置取りに不満があり、その時点でも藤懸に対して暴言を吐いていたという。岩田は謝罪したが、競馬施行規程第147条20項の適用によりレース翌日の4月25日から5月8日までの騎乗停止処分となり、25日のマイラーズカップで騎乗予定だったケイデンスコールは古川吉洋に乗り替わりとなった(1着)。過去に何度も始末書を書くような騒動を起こしていることから、この騎乗停止処分に関しては甘すぎるという批判が殺到した。 2021年6月27日、札幌競馬第5Rでシゲルツバメに騎乗して史上18人目のJRA通算14000回騎乗を達成した。 2022年1月30日、根岸ステークスにてテイエムサウスダンに騎乗しレースを勝利。この勝利によりJRA移籍後通算1700勝を達成した。勝利後、インタビューに対し岩田は「この数字は自分一人のものではなく、馬主さん、厩舎関係者の皆様、そして馬たちのおかげだと思っています。これからも馬とともに、騎手人生を楽しめたらいいなと思っています」と語った。通算1700勝の記録はJRA騎手において史上14人目。
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中央移籍後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:12 UTC 版)
2005年3月、美浦所属のJRA騎手として騎乗を開始。当初、大阪府出身ということもあり、栗東所属を考えていたが、畠山吉宏調教師に誘われたことで美浦所属となった。名前の売り込みを兼ねてローカル競馬を中心に活躍。勝ち星を面白いように重ね、最終的に80勝を挙げる活躍を見せた。暮れの中日新聞杯では念願の重賞初制覇も果たし、この年の「中央競馬騎手年間ホープ賞」を受賞した。 2006年は正月の中山金杯をヴィータローザで制し、また5月14日にはJRA通算100勝を達成した。 2007年は第4回福島牝馬ステークスをスプリングドリューで制し、中央移籍後3年連続の重賞勝利を記録したあとにはロックドゥカンブでラジオNIKKEI賞、セントライト記念を勝つなど目覚しい活躍を見せた。 しかし、同年天皇賞・秋にエイシンデピュティに騎乗した際、内にいたコスモバルクが斜行したのを見て馬が過剰に反応し、外に急激に斜行。外にいたアグネスアーク、シャドウゲイト、アドマイヤムーン、ダイワメジャーに大きな不利を与えてしまった。レース後の審議の結果、騎乗馬は8着→14着に降着、自身も11月3日から11月11日まで、開催日4日間の騎乗停止処分となった。 2008年は第26回中山牝馬ステークスでヤマニンメルベイユに騎乗し、2008年初となる重賞勝ちを収めた。 2009年1月1日付で、所属していた畠山吉宏厩舎を離れフリーになった。以降も畠山吉宏厩舎の管理馬には騎乗している。それ以外ではヤマニンメルベイユを始めとする、栗田博憲厩舎の管理馬に騎乗することが多い。 2017年1月28日、東京2レースでハッスルバッスルに騎乗し1着となり、JRA通算500勝を達成した。 2020年1月3日、春をメドに栗東へ移籍することが明らかになった。そして2020年3月4日付けで栗東トレーニングセンターに移籍することになった。同年3月24日付けで栗東・武幸四郎厩舎に所属する。 2021年10月6日付けで栗東・武幸四郎厩舎を離れ、フリーとなった。
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