中央空軍時代
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劉沛泉と陳棲霞の瓦解工作によって、1927年初めに国民革命軍が上海に到達した際、器材や人員など全て接収され、同年3月に成立した国民革命軍東路軍航空司令部の飛行員となる。同年5月、東路軍航空司令部が解消され、南京に国民革命軍総司令部航空処(処長:黄秉衡)が成立すると航空第1隊(隊長:張維)副隊長。10月20日、南京軍事委員会は唐生智討伐のため、李宗仁を西征軍総指揮を任命して第7軍などの部隊を向かわせた。航空処も曹宝清副処長、劉国楨教官、飛行員の劉芳秀、崔、李天民、李瑞彬を派遣して水上機隊を編成した。水上機隊は西征軍に同行し、陣地の偵察や武漢上空での伝単散布を行った。1928年2月、水上機隊(隊長:劉国楨)副隊長。1929年3月8日、張維、劉義曾、関双銓と共に武漢民用航空股分有限公司のライアン ブロアム旅客機「漢口號」 を操縦して湖北省、河南省、山西省の長距離飛行を行った。同年5月、南京航空司令部設立時には水上機隊(隊長:耿煜曾、副隊長:田曦)飛行員であったが、5月21日に隊長の耿煜曾が殉職すると副隊長に就任。同年11月、反乱した張発奎の部隊の討伐に参加。 中原大戦勃発後の1930年(民国19年)10月24日、広東航空学校人員で編成された軍政部航空第4隊(隊長:楊官宇)副隊長。碭山県帰徳飛行場に駐留し蔣介石サイドとして参加。しかし翌1931年5月、上官の楊官宇が陳済棠の樹立した広州国民政府に従うと、崔も劉炯光 ら第4隊隊員とともにその私設空軍である広東空軍に参加したが、満州事変勃発後、広東空軍を離脱し再び南京国民政府に帰順。同年10月 に李青天が韓国独立軍を結成して崔を航空部長に任命したが、この指令が崔に届くことは無かった 中央空軍に帰還後、第4隊は楊鶴霄を隊長として立てなおされており、再び副隊長の職に就いたと思われる。1931年頃、蒋介石の自家用飛行機の人員候補に孫基宗を推薦。同年12月末に休暇を利用して南京から武漢方面に転任、その道中上海を訪れた。翌年1月には、元東北空軍の高志航ら2名が第4隊に補充される。 第一次上海事変では、漢口において王家墩飛行場を守備していた。日本租界に配備されていたサーチライトは強力な光を照射して飛行員の目を晦ますため脅威であった。また隊員の誰もが自機が離陸する前に租界から砲撃されることを知っていた。崔は「あいつらのサーチライトを使って風向きに応じて、我々が離着陸できるようになれば面白い」といった冗談を言って、部隊の憂鬱な空気を打破した。航空署は各航空隊から抽出した30機ほどの飛行機を南京防空に充てることにし、2月21日午後から崔も龍祚炎らと共に杭州筧橋に駐留した。 1932年、航空第2隊と共同で共産ゲリラの討伐に参加。同年冬、馬鞍山及び洪洞の共産ゲリラ討伐が完了すると剿匪空軍は再編され、崔は中央航空学校高級班を受けることになり、翌年に卒業。そのまま飛行教官として同校に留まり、後進(4期、5期生)の育成に力を注いだ。 1934年8月13日に校長の周至柔が蒋介石に向けて「崔滄石など4人の韓籍飛行員は忠実に服務中ですから心配ありません」との電報を宛てている。 後に漢口において中央航校陸空連絡班の創立に携わっていた。陸空連絡班は剿匪における陸軍と空軍の調整訓練に着眼したもので、崔はこれらのための施設、企画、講習、実習を一手に創立した。1935年5月、中央各師から一人ずつ選抜された上尉以上の軍官計53名が陸空連絡訓練班第一期として入学。続く二期生は62名が入学した。これらの成果として各軍や師団に迅速で確実な陸空連絡専門員が配置されるようになった。それだけでなく剿匪の軍事観を変え、日中戦争でも成果があった。 1935年春、南昌に老営房飛行場に代わる大型飛行場として南昌青雲譜飛行場(中国語版)(三家店飛機場)が新設されると、崔は同飛機場站長に就任。同年6月、飛行隊の拠点となりうる各主要都市の大型飛行場を「第三線飛機場」として、周辺エリアの小型飛行場の地勤業務を統括させる「航空総站」の制度が置かれたことを受け、空軍南昌航空総站長に就任する。同年11月に行われた演習で西軍航空大隊(隊長:劉芳秀)副隊長。 両広事変勃発後の1936年7月2日、飛行機で青雲譜飛行場に投降して来た黄志剛ら3名の広東空軍パイロットを保護すると、教導総隊隊長の毛邦初に引き合わせ、また南昌市内の松鶴楼にて昼食をふるまった。 日中戦争勃発後、同飛機場は南京・筧橋とともに中国空軍第4大隊をはじめ戦闘機隊の重要拠点となり、器材や燃料、弾の運輸、設備の補修や人員への給養の他に、戦前から招聘されていた南昌飛機制造公司のイタリア軍事顧問団技術者をはじめ、第14国際志願大隊、ソ連空軍志願隊の要求にも対応するという激務を強いられた。また、この頃から独立運動にも再び積極的になり、大韓民国臨時政府本部のある杭州にて閔弼鎬(朝鮮語版)や李範奭と接触、運動を支援している。 1938年5月1日、中央訓練委員会陸空連絡訓練班(主任:朱暉日(中国語版))副主任。1940年7月から1942年7月まで中国陸軍大学特別班第5期に在学。
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