騎手起用
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1985年に八百長の嫌疑をかけられ騎乗停止処分となり、干される形となっていたベテラン・大崎昭一を積極的に起用したことで知られる。同県人というよしみがあり、また大崎を批判の多い関東から心機一転させて伸び伸びとやらせようとの配慮、そして腕も立つ大崎を起用したいとかねてより考えていた橋口は、1989年より厩舎所属馬の大半を大崎に委ね、1992年にはレッツゴーターキンでの天皇賞制覇に至らしめた。また、1994年頃に正式に栗東に移籍した大崎は、通算1000勝に近かったことから、橋口ら有志が「大崎に1000勝させる会」という会を作ったと伝えられたこともあったが、これは橋口が布施正と「大崎に1000勝をさせてやりたい」と話していたことが拡大解釈されて伝わったものであった。また、この時期には大崎の境遇を考慮した橋口厩舎のスタッフが、大崎の厩舎への所属を提案したこともあり、実際に検討されてはいたものの、この案は実現しなかった。 しかし橋口厩舎に新人の高橋亮が所属するようになってからは大崎の騎乗は減り、大崎自身も1998年に硬膜下血腫を発症したこともあり、1999年に通算970勝の成績で引退した。 また、2003年夏から眼病のため長期休養した上村洋行も復帰後から積極的に起用した。休養前の上村は低迷傾向にあったが、復帰後の2005年には橋口のほか新たな所属先となった藤原英昭厩舎の好調もあり42勝と成績を戻し、2008年には橋口厩舎のスリープレスナイトでスプリンターズステークスを制するに至った。これは上村にとって中央GI(JpnI)40戦目での初勝利であった。 地方競馬出身騎手も重用した。2003年に公営・笠松競馬から中央へ移籍した安藤勝己に、当初所属していた笠松競馬時代から注目し、中央移籍前から積極的に起用。ザッツザプレンティの菊花賞、ツルマルボーイの安田記念制覇は安藤の手綱による。さらに園田競馬出身の小牧太についても中央での騎乗時には様々に後援をし、2004年の中央移籍後は多くの管理馬を任せ、小牧が厩舎の主戦騎手となっていた。小牧によるGI制覇にはローズキングダムの朝日杯フューチュリティステークスがある。
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騎手起用
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騎手起用については成績上位に拘らず、管理調教師の意向に従っているため、騎乗機会の少ない新人・若手や、中堅のベテランといった騎手で重賞を勝つ例がしばしば見られる。ただし全く意見しないわけではなく、過去にはテイエムオペラオーが菊花賞で敗れた際には和田竜二の騎乗ミスに激怒し、管理していた岩元にベテランジョッキーに交代するよう要請したことがあった。この時は互いに話し合いの場を設け、岩元が弟子である和田を育てたいという思いから、竹園に懇願する形で説得した結果、竹園は要求を取り下げ、同馬には最後まで和田が騎乗した。その一方で騎手や馬に対しては深い配慮を持ち合わせており、2001年の京都大賞典で、ステイゴールドが斜行してテイエムオペラオーの進路を妨害した際にナリタトップロードの脚に接触したはずみでその鞍上の渡辺薫彦が落馬するトラブルがあったときには、同レースでステイゴールドに騎乗していた後藤浩輝を厳しく叱責したこともある。
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騎手起用
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35戦のうち、岸滋彦が29戦、武豊と田島良保が2戦、加用正と上野清章が1戦に騎乗した。 主戦騎手の岸は、梅田厩舎所属の騎手である。厩舎に所属する騎手は、大抵自厩舎の所属馬に優先して騎乗するものだったが、梅田は、所属騎手に対して、他厩舎の馬を優先するように指示。1988年、デビュー1年目の岸は、それを生かして騎乗数を増やし、同期2番目の勝利を挙げた。さらにデビュー2年目、ダイタクヘリオスと出会うことになる1989年には、吉永忍厩舎のサンドピアリスに騎乗し、エリザベス女王杯を優勝し、GI初勝利。それから3年目の1990年には、坂口正則厩舎のエイシンサニーに騎乗し、優駿牝馬(オークス)を優勝、クラシックを勝利していた。 ダイタクヘリオスでも、岸は同様の行動をとった。3歳時のさざんか賞は、中京で騎乗したために田島。阪神3歳ステークスは、同競走に参戦する坪憲章厩舎のジャストアハードに騎乗したために武。4歳時のマイルチャンピオンシップは、東京で騎乗したために田島。シリウスステークスは、京都で騎乗したために上野。5歳時の高松宮杯は、同競走に参戦する佐山優厩舎のトーワルビーに騎乗したために、梅田の弟弟子だった加用に乗り替わっていた。 ただし例外として、5歳時のマイラーズカップは、岸が騎乗停止処分中だったために、武に乗り替わっていた。マイラーズカップへ参戦するきっかけに、「大本命」ホリノウイナーの回避があったが、ホリノウイナーはもともと武が騎乗する予定であった。そのため、空いていた武がダイタクヘリオスに起用されるに至っている。5馬身差の勝利に導いた武は「これなら僕が乗る予定だったホリノウイナーが出ていても少し危なかったかも知れません。」と述べていた。その後のダイタクヘリオスは、ダービー卿チャレンジトロフィーに進んだが、岸の騎乗停止期間が明けたにもかかわらず、武が継続して騎乗することが内定していた。そこで岸は、陣営に騎乗を志願。それが受け入れられて、主戦騎手の座を守り抜いていた。 4歳の葵ステークスから約1年半、岸とのコンビでは連敗を続け、武や加用が騎乗した時のみ勝利するという現象に見舞われていた。周辺からは「あいつが乗ると勝てない」と批判されるほどだったが、コンビは継続し続けていた。そして5歳のマイルチャンピオンシップでようやく勝利し、岸は師匠にGIタイトルを届けることができ「胸にこみあげてくるものがあった。泣きそうなくらいでした」と述懐している。これ以降、引退まで岸が騎乗することとなるが、これは梅田が岸に対して「もうこれからは、(ダイタク)ヘリオスが出るときは、よその厩舎の馬に乗ることはできんぞ」と述べていたためであった。
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