ポスト冷戦時代(1991年-1990年代前半)
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「ポスト冷戦時代(英語版)」も参照 ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで反共主義が故に、軍事政権や独裁政権、長期政権の存在が容認されていた一部の西側諸国(インドネシアや台湾、韓国、ザイールなど)が、アメリカからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったために次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも55年体制が崩壊し、非自民・非共産連立政権が樹立された。さらに反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事政権や独裁政権、長期政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。 米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としてのリベラル民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となった。ソ連型の国営の計画経済・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。 東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。
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ポスト冷戦時代
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「偏向報道#中国との関連」、「中国人民解放軍#諜報活動・政治工作」、および「対日有害活動#中国による工作」も参照 21世紀に入ると、中国の経済成長や軍事面での強大化、尖閣諸島海域での領海侵犯など日本の権益への侵犯行為が表面化するにつれ、中国に脅威を感じる日本人が増えていった。特にAFCアジアカップ2004で日本が優勝した際に発生した一部中国人の暴動はマスコミでも大きく取り上げられ、「スポーツは政治と絡めないで友好を模索するもの」という日本人の一般的な市民意識と大きく隔たった問題行動が、中国に対する感情を悪化させた。 1989年6月4日の天安門事件への人権派や中国民主化運動支持者からの反感や、中国共産党による一党独裁体制が未だ存続していることに対する自由主義者や反共主義者による反感もある。こういった動機からの反感は、中国共産党の横暴への反感であって、漢民族への民族主義的な反感とは峻別するべきであるという考えもある[誰によって?]。 また、その他にも、様々な問題、例えば靖国神社参拝における中国の反応やデモなどが日本で度々報じられたり、尖閣諸島問題や東シナ海の天然ガス田をめぐる摩擦(東シナ海ガス田問題)や上海総領事館員自殺事件などが重なり、一方では中国が反日教育を自国民に施しているのではないかとの疑念が日本で広がった。
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ポスト冷戦時代
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第41代および第43代大統領を生み出したブッシュ家は、軍産複合体を生業としてきた。第43代大統領の曽祖父サミュエル・ブッシュはオハイオ州で兵器を製造していたバッキー・スティール・キャスティング社を経営していて、1917年からはワシントンD.C.の連邦軍需産業委員会の小火器・弾薬・兵站部門の委員となった。祖父のプレスコット・ブッシュは東京大空襲で大量に使用された焼夷弾である集束焼夷弾E46の製造を行なっていたドレッサー・インダストリーズ社に関与し、戦後は上院議員もつとめている。第41代米大統領はこのド社の石油部門で働いていた。その後、第41代大統領はCIA長官、副大統領、大統領時代において、海外との兵器貿易を押し進めており、副大統領時代にはイラン・コントラ事件が起きている。 冷戦終了後の1990年代にはアメリカの兵器メーカーによる議会工作の方法が高度化した。まず、軍需産業によるタカ派シンクタンクへの献金によって仮想敵国の軍事的脅威が強調された報告書が作成され、高額な報酬を受け取るロビイストによって国防関係の議員達にさまざまな働きかけが成される。1997年だけでもロビー活動費として5,000万ドルが費やされ、870万ドルが1998年にかけての選挙資金として提供されたと見積られている。地元での防衛産業に関わる有権者の票と共に、こういった業界からの資金提供が議員達の政治判断に影響するようになっていった。レーガン政権時代には、実現性が無いとする多くの反対を押し切って、「スターウォーズ計画」とも呼ばれた「SDI計画」が550億ドルの巨費を投じて進められ、15年間の計画は終了した。この計画が失敗であったかどうかの意見は分かれるが、先進的な軍事技術を生み出しながらも具体的な兵器は一切完成しなかった。 1990年代にホワイトハウスが「ならずもの国家」と名指ししていた「イラン」「イラク」「北朝鮮」の3カ国の他に、「スーダン」「シリア」「キューバ」といった反米国家のすべての軍事費を合計してもアメリカ1国だけで19倍程度の軍事費を毎年費やしてきた。さらに、2001年の9・11同時多発テロによって、イスラム過激派に対する対テロ戦争と言う名目はアメリカの軍事費を前年に比べ326億ドル増額させることに成功し、国防総省の総予算は3,750億ドルにまでなった。しかし、これらは主に駐留経費の増額であり、艦船や航空機などの大口の受注はむしろ減額されているという指摘もある。 「対テロ戦争」における実際の軍事行動は、敵対勢力への積極的な海外派兵によって行なわれ、兵器の使用に伴って大きな軍需物資の需要が生み出されている。特にアフガニスタンとイラクでは、主戦闘以外のあらゆる侵攻作戦上の業務を米国の民間会社へと委託する方式(民間軍事会社)を生み出すことで、従来のように遠く離れた母国から武器などの物の販売によって利益を得るのではなく、戦争や紛争が起きている現場での労働力の提供による利益を追求するといった、戦争そのものが新たな産業として確立しつつある。 「対テロ戦争」とは直接関係が無い、弾道ミサイル防衛に関しても対テロによって減額されることなく、レイセオン社のような企業によって開発と配備が進められており、アメリカやカナダだけでなく、ヨーロッパと日本への配備も進展しつつある。同様に、F-22「ラプター」戦闘機や「ジョージ・H・W・ブッシュ」、「ジェラルド・R・フォード」原子力空母といった通常戦争用の新型兵器の開発と配備の計画も進展している。 21世紀になると、軍産複合体という概念は世界でも突出して大きな軍需産業を持つアメリカに関して言及されることが多くなった。アメリカ経済の軍事費及び軍需産業への依存度を推定することは難しい。それは明らかに莫大であり、彼らの地区に影響を及ぼす防衛費の削減に議員は激しく抵抗する。ワシントン州ではある経済学者は2002年に西部ワシントンで直接、間接に防御産業を除いた軍事施設単独で166,000人の仕事或は約15%の労働人口が依存していると見積もった。ワシントン州で2001会計年度で防衛予算から総額約70億6,000万ドルの給与、年金、調達費が支払われた。この額はワシントン州が全米で7位である。米国の防衛研究費だけでもGDPの1.2%に上る。また、アメリカに次ぐ軍事費を投じて軍需産業の規模も世界2位となり、米中冷戦状態にあると評されている中華人民共和国では国有企業が独占した軍需産業を民間に開放してアメリカの軍産複合体をモデルに中央軍民融合発展委員会(中国語版)を設置したとされる。歴代大統領と比較して孤立主義的とも評されるドナルド・トランプ共和党政権ではパトリック・シャナハンやマーク・エスパー、その後任のジョー・バイデン民主党政権でもロイド・オースティンのような軍需産業の役員経験者がアメリカ合衆国国防長官に指名され続けるなど軍需産業はアメリカの政界に強い影響力を持っている。
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