シュシュンとは? わかりやすく解説

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朱儁Zhu Jun

シュシュン

(?~195
大司農特進・行驃騎将軍事・銭塘

字は公偉。会稽郡上虞の人。

『三国志』では「朱儁」、『後漢書』では「雋」と作る

若くして父を失い、母がいつも絹を売って生計立てていた。朱儁は孝養尽くして評判となり、県の門下書佐となった義侠好んで財貨軽んじたので、郷里人々彼に敬服した

そのころ同郡の周規という者が公府に召され出かけるにあたって、郡の倉庫から百万銭を借りて冠を仕立てる費用充てた。その後倉庫番督促したとき、周規の家は貧しくて返済することができなかった。朱儁はそこで母の絹を持ち出して弁済してやった。母は家業元手失って激怒し、朱儁を叱りつけたが、朱儁は「少しの損をして大きな利益得られます。初め貧しけれ後々豊かになるのは当然の理でしょう」と答えた

県長度尚は彼を引見して高く評価し太守韋毅に推薦した次々に郡職を歴任したのち、太守尹端が朱儁を主簿取り立てた熹平二年(一七三)、尹端は賊徒許昭を討伐して敗戦したため、州の弾劾受けて棄市当の罪とされた。朱儁はそこで襤褸まとって密かに出かけ、数百金を携えて京師上り担当役人賄賂つかませた。かくて州の弾劾上表抜き去ることができ、尹端は左校に移されるだけで済んだ。尹端は減刑され喜んだものの、その理由分からず、朱儁もまた生涯他言することはなかった。

のちに太守徐珪が朱儁を孝廉推挙し二度栄転して蘭陵県令任命された。統治にはひときわ目を引くものがあり、(その素晴らしさは)東海の相から上表された。

そのころ交阯賊徒どもが一斉に蜂起したが、牧守たちは軟弱制圧することができなかった。また交阯の賊梁龍下一万人余り南海太守とともに叛逆して、郡県を攻め落とした光和元年一七八)、朱儁を交阯刺史任命して本郡で家兵および軍需物資募集徴発させ、都合五千人が手を分けて二つの道から(交阯へ)入ることになった州境まで来ると、兵士留め前進をやめ、まず郡に使い出して敵情を探らせ、威光恩徳喧伝して彼らの心を動揺させた。それから七郡の郡兵とともに進軍し襲いかかり、ついに梁龍を斬った。降服する者は数万人、丸一ヶ月で完全に平定された。功績により都亭侯千五百戸に封ぜられ、黄金五十斤を賜り中央徴され諫議大夫となった

黄巾賊蜂起すると、公卿多くが朱儁には才略があると推薦したので、右中郎将任じて持節とし、左中郎将皇甫嵩とともに潁川汝南陳国もろもろの賊を討伐させた。ことごとく打ち破り平定した。皇甫嵩状況報告し功績を朱儁のものとした。こうして西郷侯に栄転し、鎮賊中郎将昇進した

このとき南陽黄巾賊張曼成挙兵して神上使」と称し数万人を集めて太守褚貢を殺害、宛の城下百日余り屯していた。後任太守秦頡張曼成殺したが、賊徒改め趙弘なる者を総帥立て軍勢はますます膨れあがって十万余りになり、宛城占拠した

朱儁は荊州刺史徐璆および秦頡合流して軍勢一万八千人で趙弘包囲したが、六月から八月にかけて陥落させられなかった。担当者が朱儁を徴し返すべきと上奏したが、司空張温が「むかし秦は白起登用し、燕は楽毅任命いたし、みな年をまたいで敵に打ち勝つことができました。朱儁は潁川討伐して功績があり、軍を返して南方向かい計略もすでに定まっております戦闘目前将帥配置換えするのは兵家戒めるところ。月日猶予をやって成功促してやるのがよろしゅうございます」と上疏したので、霊帝は(呼び戻すのを)取り止めた。朱儁は趙弘急襲をかけ、これを斬った。

賊の残党韓忠がまたも宛城籠って朱儁に抵抗すると、朱儁は軍勢少なく対抗できなかったため、包囲張り巡らせ塁壁立て土山築いて城内見下ろした太鼓打ち鳴らして西南側から攻めかけると、賊軍総員でそこへ向かったので、朱儁はみずから精鋭五千人を率いて東北側から襲いかかり、城内乗り込んだ

韓忠は(宛城を)抜け出して小城籠り恐れおののいて降服願い出た司馬張超および徐璆秦頡はみな受け入れてやるべきと考えたが、朱儁は「戦いには形が同じでも勢いが違うこともある。むかし秦・項のころは民衆には定まった君主がおらず、それゆえ賞金出してでも味方招いたのである。いま海内一統され、侵害をなしておるのはただ黄巾賊あるのみ。降服受け入れては善を勧めることにならず、これを討伐してこそ悪を懲らしめることになる。いま受け入れてやるのは改め叛逆意志を開くことになり、賊徒どもは有利なとき進んで戦い不利になれば降服申し出ようとするだろう。悪党増長させるのは良計ではない」と言い厳しく攻め立てたが、何度戦っても勝つことができなかった。

朱儁は土山に登って見下ろし張超の方を振り返って言った。「吾は分かったぞ。賊軍はいま外周固められ内部では追い詰められ降服願い出て許されず、抜け出すこともできないので、死に物狂いで戦うのだ。万人が心を一つにしても当たるべからざるところ、ましてや十万人なのだ!その被害甚大になるわけだ。包囲を解くと同時に軍勢入城させるに越したことはない韓忠包囲解けたと見るや、勢い自分から出てくるだろう。出てくれば志気散漫になり、容易く打ち破られるのは道理である」。包囲解いてやると、韓忠果たして城を出てきた。朱儁はそこで攻撃をかけてこれを大破勝利乗じて北方数十里のところまで追撃した斬首すること数万級、韓忠らはついに投降した

秦頡韓忠への恨み募らせてこれを殺したので、残党どもは恐怖し、また孫夏総帥として宛の城内引き返した。朱儁がこれを急襲する孫夏逃走したので、西鄂の精山まで追撃してまたも打ち破り一万余りを斬った。賊軍はようやく解散した

翌年春、使者に節を持たせて派遣して朱儁を右車騎将軍に任命、(彼が)京師凱旋する光禄大夫とし、食邑五千戸を加増銭塘侯に転封し、特進の位を加えた。母が亡くなったため官を去ったが、(服喪終えると)家を出て将作大匠復職少府太僕へと異動した

黄巾賊蜂起して以来、また黒山黄龍白波・左校・郭大賢・于氐根・青牛角張白騎・劉石・左髭丈八・平漢・大計司隷・掾哉・雷公浮雲飛燕白雀楊鳳于毒・五鹿・大目白繞畦固・苦唒といった輩が、こぞって山谷蜂起して数え切れず大きい者では二・三小さい者でも六・七千人もあった。

とりわけ)賊の総帥張燕士卒の心をよくつかんでおり、中山常山趙郡上党河内もろもろ山賊らと手を結び軍勢百万人に上り、「黒山賊」と号した河北もろもろの郡県はいずれ損害被ったが、朝廷討伐することができず、張燕使者京師送って降服願い出たので、ついに張燕を平難中将に任じ河北もろもろ山谷事務宰領させ、年ごと孝廉・計吏を推挙できる権限を与えたであった

張燕その後次第河内侵害するようになり、京師へと迫ってきた。そこで朱儁を河内太守任じ、家兵を率いて彼らを撃退させた。再び朱儁を光禄大夫任じ、屯騎校尉転任させ、程なく城門校尉河南尹任じた

ときに董卓朝政牛耳っていたが、朱儁が宿将であったので、表面上はことさら親しげ受け入れつつも、内心ではひどく憎んでいた。関東軍勢盛んになると、董卓恐怖し、しばしば長安への遷都について公卿議論させたが、朱儁はそのつど反対した。董卓自分楯突く朱儁を憎んだが、その名声重さ利用したくもあり、太僕昇任するよう上表して自分副官にしようとした

使者来ても、朱儁は辞退して拝受せず、言った。「国家天子)が西方遷都なされば必ずや天下希望に背くことになり、山東罪悪成功させることになります。臣にはその良さ理解できません」。使者咎めて言った。「貴君召し寄せて叙任ようとしておるのに貴君はそれを拒否される遷都のことは訊ねておらんのに貴君はそれを陳述される。その理由は何であるか?」、朱儁「相国副官などは臣に務まるものではありませんし、遷都の計画は緊急のことではありません。務まるものでないのを辞退して緊急のことでないのを言うのが、臣の良しとするところです」、使者遷都のことだが、そんな計画聞いておらぬ。たといあったとしても発表されておらぬはずだが、どこから聞いたのか?」、朱儁「相国董卓どのが詳細に臣へご説明くださいました。それで知ったのです」。使者やりこめることができず、こうして副官とするのは取り止められた。

董卓はのちに関中入りしたとき、朱儁を残して洛陽を守らせたが、朱儁は山東諸将内応すべく計画通じしばらくして董卓襲撃恐れ官職棄てて荊州出奔した董卓は楊懿を河南尹として洛陽を守らせた。朱儁がそれを聞いてまた進軍し洛陽へ帰ると、楊懿は逃走した。朱儁は河南破壊され物資になるものがなかったので、東進して中牟屯し、州郡に書状回して董卓討伐軍勢起こすよう要求した

徐州刺史陶謙精鋭三千人を派遣してくれたほか、その他の州郡からも少しづつ補給があった。陶謙はそこで朱儁を行車騎将軍とするよう上表した。董卓はそれを聞いて、その将李傕郭汜数万人を河南に屯させ、朱儁と対抗させた。朱儁は迎撃したが、李傕郭汜撃破された。朱儁は自分の力では敵わないことを知り関所の麓に留まったまま前進することができなかった。

董卓誅殺されたのち、李傕郭汜混乱巻き起こした。朱儁はこのときなお中にあった陶謙は朱儁が名臣であり、しばしば戦功立てていたことから、大事を委ねられる考えもろもろ豪傑たちとともに朱儁を太師任ずるよう推薦し牧伯たちに檄文飛ばして一緒に李傕らを討って天子奉迎しようと述べた

朱儁を推薦する上奏文に曰く、「徐州刺史陶謙・前揚州刺史周乾・琅邪陰徳東海相劉馗・彭城相汲廉・北海孔融・沛相袁忠・太太守応劭汝南太守徐璆・前九江太守服虔博士鄭玄ら、行車騎将軍河南尹幕府について申し上げます国家はすでに董卓重ねて李傕郭汜災禍遭遇いたしました幼主人質取られ忠義善良な者は殺され長安隔絶し吉凶のほども分かりません。それにつき官職に就く者、有識紳士のうち憂慮せぬ者はございませんが、思うに明哲雄霸の士でない限り、どうして災禍混乱をよく鎮められましょうか挙兵して以来これまで三年、州郡は首を振りつつ見回しておりますが、いまだ奮闘功績立てる者なく、私欲のために争って疑惑し合う有様です。」

続けて曰く、「陶謙らは互いに相談し国難解消のために議論いたしましたところ、みな『将軍君侯(朱儁)は文徳備えたうえ武威兼ね天運に応じて現れた。凡百君子たちに仰ぎ慕わぬ者はない』と申しましたそれゆえ互いに率い励まして精鋭選り抜き深く進入してまっすぐ咸陽目指し多く物資食糧抱えて半年支えられるようになったであります謹んで心を一致させ、彼に元帥委ねた存じます。

ちょうどそのとき李傕太尉周忠尚書賈詡献策用い、朱儁を徴し寄せて入朝させた。軍吏はみな関中入り危惧抱き陶謙らと呼応した思ったが、朱儁は「君主臣下召し寄せたときは馬車待たぬのが定めましてや天子の詔なのだ!それに李傕郭汜小倅樊稠凡人過ぎず別段長期的計画があるわけでもない。また勢力拮抗しており、変事は必ず起こる。吾がその隙に乗ずれば、大事は解決できようと言い陶謙提案辞退し李傕お召し応じた。再び太僕となり、陶謙らも(太師への推挙を)取り止めた

初平四年(一九三)、周忠後任として太尉録尚書事となり、翌年秋、日蝕によって罷免されたが、また行驃騎将軍事・持節となり、関東鎮撫することになった。まだ出発せぬうち、李傕樊稠殺害したので、郭汜もまた疑心抱いて李傕抗争始め長安中が混乱した。そのため朱儁は留まって出発せず、残って大司農拝命した。

献帝は朱儁に詔勅下し太尉楊彪十人余りとともに郭汜説得し李傕講和させようとした。郭汜承知せず、朱儁らを勾留して人質取った。朱儁はもともと剛直なであったので、その日のうちに発病して卒去した。

参照】韋毅 / 尹端 / 于羝根(于氐根) / 于毒 / 袁忠 / 縁哉(掾哉) / 応劭 / 賈詡 / 郭汜 / 郭大賢 / 楽毅 / 韓忠 / 汲廉 / 許昭 / 苦蝤(苦唒) / 五鹿 / 孔 / 孔融 / 項羽(項) / 皇甫嵩 / 黄龍 / 黒山 / 左校 / 左髭丈八 / 司隷 / 周規 / 周乾 / 周忠 / 徐璆 / 徐珪 / 秦頡 / 眭固畦固) / 青牛角 / 孫夏 / 大洪(大計) / 褚貢 / 張燕飛燕) / 張温 / 張超 / 張曼成 / 張雷公雷公) / 趙弘 / 鄭玄 / 度尚 / 陶謙 / 陶升平漢) / 董卓 / 白起 / 白雀 / 白繞 / 白波 / 樊稠 / 浮雲 / 服虔 / 楊懿 / 楊彪 / 楊鳳 / 李傕 / 大目 / 劉馗 / 劉協献帝国家天子) / 劉宏霊帝) / 劉石 / 梁龍 / 潁川郡 / 宛県 / 燕 / 会稽郡 / 河内郡 / 河南尹 / 河北 / 関中 / 関東 / 咸陽 / 九江郡 / 荊州 / 交阯 / 山東 / 上虞県 / 常山国 / 上党郡 / 徐州 / 汝南郡 / 秦 / 西鄂県 / 西郷 / 精山 / 銭塘県 / 泰山郡太山郡) / 中山国 / 中牟県 / 趙国 / 長安県 / 陳国 / 東海国 / 都亭 / 南海郡 / 南陽郡 / 沛国 / 彭城国 / 北海国 / 揚州 / 雒陽県(洛陽県) / 蘭陵県 / 琅邪国 / 尹 / 右車騎将軍 / 右中郎将 / 諫議大夫 / 郷侯 / 計吏 / 県長 / 県令 / 侯 / 公卿 / 孝廉 / 光禄大夫 / 左校 / 左中郎将 / 司空 / 刺史 / 持節 / 司馬 / 車騎将軍 / 主簿 / 相 / 相国 / 将作大匠 / 尚書 / 少府 / 城門校尉 / 太尉 / 太師 / 大司農 / 太守 / 太僕 / 鎮賊中郎将 / 亭侯 / 特進 / 屯騎校尉 / 博士 / 驃騎将軍 / 平難中郎将 / 牧守 / 牧伯 / 門下書佐 / 録尚書事 / 行 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 神上使 / 節 / 府(幕府


首春

読み方:シュシュン(shushun)

春の始め

季節 新年

分類 時候



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