イギリス革命と寛容法とは? わかりやすく解説

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イギリス革命と寛容法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「イギリス革命と寛容法」の解説

詳細は「清教徒革命」、「名誉革命」、および「アメリカ合衆国における政教分離の歴史#近代イングランドにおける宗教国家」を参照 1603年3月エリザベス1世死去の報を受けてスコットランド王ジェームズ6世イングランド王ジェームズ1世として即位しステュアート朝開いた。これにより、イングランドスコットランドは、別々の議会もちながらも同じ国王によって統治される同君連合となった新し国王に対していち早く行動したのは、イングランド国教会からカトリック要素一掃して宗教改革徹底を図るカルヴァン派人々であり、彼らはイギリスにおいて「ピューリタン清教徒)」と呼ばれたピューリタンたちは、1603年4月には戴冠のためにエディンバラからロンドンに向かうジェームズに「千人請願」という書状提出し、さらに徹底した教会改革進めるよう求めた。これを受けて国王は翌1604年1月ハンプトン・コート宮殿にて各宗派の代表を集めハンプトン・コート会議英語版)を開いた。ところが、この会議ジェームズは「主教なければ国王なし」と述べ先王エリザベスからの申し渡し事項でもある国教会体制堅持姿勢示した1605年11月にはカトリック教徒議会爆薬用いて両院議員国王爆殺を図るという火薬陰謀事件未然発覚しており、ジェームズ1世姿勢ピューリタンのみならずカトリック教徒からも不満があったことがわかる。ただし、この事件はむしろイングランド人々従来もっていた反カトリック感情刺激する結果となった。これは、スペインフランスなどのカトリック強国脅威ローマ教皇イエズス会などの圧力対す反感などに根差した歴史的な感情であったアルマダ撃退同君連合の成立などによりカトリック脅威相対的に減じるなか、ステュアート朝王権現実的な外交関係展開し近接する大国であるスペインフランスには融和的に振る舞ったことが、議会からの非難浴びたのである国王側も議会からの干渉を嫌い、その招集極力回避しようとした。ヨーロッパ大陸三十年戦争戦乱陥った際もイギリス参戦消極であったが、その背景には戦費調達のために議会開会することに王が難色示したためである。しかし、多くイギリス人はこの戦争カトリックとプロテスタント戦争とみなし、イギリスプロテスタント側に立って戦うのを期待した国王宮廷はこうして反カトリック意識標的とされていった一方ジェントリ(「郷紳」、地主層)を母体とする議会庶民院は、王権直接神の権利由来するという「王権神授説」を掲げて議会軽視しがちな王に対しイングランド固有の法体系であるコモン・ロー根拠として抵抗したまた、国王経済政策1620年代深刻な不況に対して抜本的な対策をおこなわず、むしろ財政難のために諸々独占濫発してジェントリヨーマン独立自営農民)の活動妨げており、彼らは議会議席有していたために議会国王対立した。なお、当時イギリスオランダフランスとともに北アメリカ大陸進出しヴァージニア植民地皮切りに東部植民地化進めていった。植民地最初の定住集落ジェームズタウン国王ジェームズの名にちなんでいる。 ジェームズ1世の子で、その後継いだチャールズ1世議会同意なき外交課税強化をおこなうなど議会軽視姿勢がみえたため、1628年議会は「権利請願」を王に提出し議会承認なくして課税することや国民不法に逮捕することは今後おこなわない約束させた。これに対して王は先代同様王権神授説信奉しており、翌1629年には議会解散して反対派議員投獄し専制政治続けた当時成長していたヨーマン中小商工業者にはピューリタン多くチャールズ敵視した。チャールズ1世は、フランスからカトリック王妃アンリエッタ・マリア迎えセント・ジェームズ宮殿内にバロック様式カトリック礼拝堂建設するなど親カトリック的な政策進めカンタベリー大主教登用されウィリアム・ロード国教会正統性を「使徒継承性」という議論によって基礎づける改革進め過程ピューリタン弾圧したピューリタンはさらに国王国教会への反発嫌悪感強め国教会支持とどまっていた人々宮廷官職にあずかれない人々中心として国教会改変反発し国王に対してカトリック復活意図しているのではないかとの疑いから、ピューリタニズム接近した1641年11月議会国王抗議して議会の大諫奏」を発した1642年3月ロンドン離れて戦闘準備始めた国王に対して議会側が「民兵条例」を採択して軍事握り同年6月には議会主権主張する19か条提案」をチャールズ1世提出した国王受諾拒否し同年8月末にノッティンガムにおいて挙兵した。こうして、国王派騎士党)と議会派円頂党)での内戦イングランド内戦)が勃発した当初国王軍三十年戦争への従軍経験をもつ貴族戦いプロフェッショナルである精強騎兵隊擁し土着性の強いアマチュア集団である民兵に対して優勢に立ったが、議会派オリヴァー・クロムウェル議会軍を改革再編成して鉄騎隊」を指揮し1645年6月ネイズビーの戦い決定的勝利を収め翌年6月内乱終結した1648年12月長期議会では国王処遇穏健な態度示した長老派議員追放されて独立派議員だけで構成されるランプ議会開かれ1649年初めに国王を裁くための高等裁判所設置された。同年1月末、チャールズ1世は「専制君主反逆者殺人者国家対する公敵」の罪で死刑判決を受け、公衆の前で斬首された。同年5月には正式に共和政宣言出されクロムウェル首班とするイングランド共和国となった。この一連の動きを、清教徒革命という。 国王処刑当時にあっては宗教的に政治的にも掟に反していたことから国内外大きな衝撃与えスコットランド議会はこれに反発してチャールズ息子チャールズ2世)を擁立したが、クロムウェル軍に敗れた。これは文化的変容をももたらしそれまで終末における「キリストの再臨」の願い衰退する歴史における断絶把握されてきたものが、いまやピューリタンにとっては「真の教会」が次第勝利向かい、この再臨準備して進歩思想出現しつつあると観念された。そして、この進歩自身行動にこそかかっているのだと考えられた。革命中になされた多く説教中身が以上のような趣旨であり、個人の自由意志によって参加する形で多数プロテスタント教会が、当時組織された。強い選民意識有していたクロムウェルをもってしても宗教的統制掌握はできず、当時には「神の王国」を到来待ち望むさらに急進的な教派セクト)が出現したセクトは、共有地開墾して共産主義的コンミューン建設目指したディッガーズ(英語版)や「内なる光」を重んずる道徳律廃棄派のランターズ英語版)、「見えざる教会」のみが真の教会であり、真理聖書信条などではなく魂に直接語りかける主張したクエーカーフレンド派)など、多数およんだ共和政成立後クロムウェル航海法制定しオランダ船を締め出しカトリック教徒の多いアイルランドへの軍事遠征経てこれを征服し植民地とした。アイルランドでは一般住民まで巻き込み虐殺起こっている。護国卿となったクロムウェルピューリタニズムにもとづく厳格な独裁統治国民は不満をもつようになり、1658年9月に彼が死去すると息子のリチャード・クロムウェルが父の跡を継いで護国卿就任したが、混乱状態を収拾できなかった彼が翌年5月政権投げ出したことにより、共和政幕を閉じた1660年2月スコットランド軍司令官ジョージ・マンクによって長期議会再開され大陸亡命していたチャールズ2世国王迎えたイングランド王政復古)。 チャールズ2世カトリック傾斜しながらも国教会体制維持したが、王位継承者であった王弟ヨーク公ジェームズカトリック教徒であり、その即位めぐって即位反対派(「嫌悪派」、ホイッグ党)と即位支持派請願派、トーリー党)に議会分裂した結局ジェームズ1685年ジェームズ2世として即位した即位後、ジェームズ2世審査法適用除外設置主張してカトリック教徒官職登用する道を開きオックスフォード大学カトリック化に着手するなどのカトリック容認政策進め議会はこれに危機感抱いた。そして、1688年6月将来カトリックとして育てられるであろう王子誕生したため、これを機にホイッグトーリージェームズ2世排除合意し王の娘婿でプロテスタントだったオランダ総督オラニエ公ウィレム援軍派遣求めた同年11月イングランド上陸したウィレム軍に多くイングランド貴族帰順し孤立無援となった王は秘かにフランス亡命した。翌1689年2月ウィレムとその妻メアリー議会提示する国民の権利と自由を確認した権利宣言」を受け入れ共同統治者ウィリアム3世およびメアリー2世として即位した。これは、流血をともなわずに成就した革命であるとして「名誉革命」と呼ばれている。 議会1689年5月に「寛容法(英語版)(信教自由令)」、同年12月に「権利の章典」を成立させた。いずれもピューリタン革命以来国王議会対立終止符打ち以後100年にわたる「名誉革命体制」の出発点となった権利の章典ウィリアムとメアリー夫妻受け入れた権利宣言」を基礎したもので、これによってイギリスでは議会主権確立し以後議会王政定着していった。王位継承についてはカトリック君主またはカトリック配偶者とする者を王位継承者から排除するという明確な方針打ち出された。これは、「教皇絶対主義」と「専制的権力」が結びついている考えられたためであり、ここでは政治宗教が密接にかかわっている点にこそむしろ一定程度人間的自律成立しうると考えられた。王位継承者特定宗教受け入れるよう求めるのは議会によって代表されるところの国民であり、国王がそれを求めるのではないことが強調された。逆説的ながらそこにおいて部分的にではあるが、多元主義信教の自由世俗主義成立しているとみることが可能となる。これにより、王位請求者となったカトリックジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート1701年改宗拒否によって即位できなかった結果1714年ステュアート朝断絶してハノーヴァー朝への交代もたらすこととなった寛容法(信教自由令)では、国王忠誠誓いえすればピューリタン系の非国教徒信仰認められどのような形式であれ宗教的罰則適用させないことが宣言された。ただし、すべての非国教徒寛容対象となるのではなくカトリック無神論者例外とされた。また、寛容対象となったピューリタンであっても審査法などの法令効力失ってはいなかったので、基本的に公職に就くことができなかった。公職を得るには年に一度聖餐式おこないローマ教皇対す忠誠拒否をおこなわなければならなかった。イギリスでは結局国教会中心体制依然として維持された。

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