NPB時代とは? わかりやすく解説

NPB時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 09:54 UTC 版)

三輪正義」の記事における「NPB時代」の解説

2008年イースタン・リーグ80試合出場し二塁手としてレギュラー梶本勇介に次ぐ50試合遊撃手としても15試合守備についた。元々送球難があるとされており、特に遊撃手としては失策多かった課題とされた打撃面は、打率.283、出塁率.349と1年目としては上々結果残したイースタン・リーグ2位となる24盗塁記録した2009年イースタンリーグでの成績評価され6月26日一軍選手登録されたが、翌日抹消された。7月9日に再び一軍登録され7月10日横浜戦で代走初出場盗塁試みるも失敗終わったイースタンリーグでは主に二塁手として出場し盗塁王36盗塁)と最高出塁率(.397)の二冠となり、打率リーグ3位の.321であったシーズン終了後宮崎フェニックスリーグ参加していたが、10月19日三度目一軍登録を受け、同日中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ第3戦に代走として出場した2010年一軍キャンプスタートとなり、オープン戦でも主に代走として起用された。4月3日横浜戦で代走出場4月9日の対阪神タイガース戦に1番レフトスタメン起用され最初打席安藤優也からプロ入り安打放った内野手登録だが、2010年左翼手としての出場しかなかった。 2011年スタメン出場1試合終わったが、故障した福地寿樹にかわり、代走切り札としてリーグ2位の39出場し守備では外野ポジションサードセカンド5つポジション守ったこの年パ・リーグ球団からトレード申し入れがあったことが後に明らかにされている。 2012年は、プロ入り初の二塁打マークするなどと自己最多65試合出場代走としてチームトップの29出場し守備では昨年同じく5つポジション守った2013年4月9日戸田球場行われたファーム練習試合新潟アルビレックスBC戦にてプロ入り初の「2番捕手」でスタメン出場同年4月12日一軍に登録。4月17日対中日戦で9回に畠山和洋代走として出場したが、チーム同点追いつき延長戦入った際に選手使い果たしベンチ一塁を守ることができる選手一人もいなくなってしまったため、急遽プロ入り初め一塁手として守備就いた4月25日の対広島戦記録したプロ入り打点が、「人生初」のサヨナラヒットとなった2014年32試合出場した2015年自己最多となる87試合出場した20安打、7打点自己最多となる。日本シリーズでは第4戦の8回に代打として出場した結果はサードゴロ)。 2016年6月26日中日戦4-4延長11回1死満塁場面で代打登場すると、センター3年ぶりのサヨナラヒット放った2017年出場16試合とどまりオフ契約更改後の会見では「結果残さないと(試合に)出れないのは当たり前。仕方がない思っている」と述べたこの年5月プロ野球実行委員会では、独立リーグ出身者国内FA権取得に際して大学社会人出身者と同じ条件一軍登録日数7年)を認めるかにつき、三輪取得念頭に置いた議論おこなわれた香川に入る前に社会人軟式野球部に所属していたことから、三輪取得する場合社会人出身者と同じ扱いとなることが確認されたが、一軍登録日数条件届かず2017年シーズンでの資格取得には至らなかった。 2018年7月30日独立リーグ出身選手では初となる国内フリーエージェント資格取得した出場機会前年から微増し2年ぶりの安打打点記録した2019年イースタン・リーグ試合には出場していたもの一軍昇格機会がないままシーズン過ごし9月17日今シーズン限り現役引退することが発表された。9月22日の対巨人23回戦終了後引退セレモニーが行われ(一軍登録されていなかったため試合には出場せず)、この日の試合降雨コールドゲームだったこともあり、引退挨拶の後にはホームベース上のブルーシートヘッドスライディング二度披露した結局現役選手として最後に出場した試合は、9月26日イースタン・リーグロッテ戦であった12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示

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NPB時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:01 UTC 版)

ジョン・シピン」の記事における「NPB時代」の解説

1971年12月10日大洋入団近藤昭仁代わる二塁手として、常に3割を狙え安定した打撃売りクリーンナップ一角として活躍守備にも定評があり、1972年・1973年ダイヤモンドグラブ賞二塁手)を受賞1970年代プロ野球代表する二塁手となった1975年には自己最多34本塁打記録。その長髪いかつい髭から、当時特撮番組快傑ライオン丸にちなんで「ライオン丸」の愛称親しまれ球団川崎を去る1977年まで在籍。尚、トレードマークだった長髪と髭は下記のように、巨人移籍同時にバッサリ切ったが、2022年2月発刊の「シリーズよみがえる1970年代プロ野球PART.2」によると大洋在籍時の昭和50年6月頃にも綺麗に切ったことがあり、違和感覚えた小学生ファンからサイン求められた際にはカタカナで「シピンと書き添えていたと言う1978年3月20日金銭トレード巨人移籍移籍の際にトレードマークとなっていた長髪と髭をばっさり切った入団1年目二塁手土井正三がいたため、右翼手との掛け持ちだった。巨人の第424番打者にもなっている。1979年中心打者として活躍したが、1980年には篠塚利夫台頭し定位置奪取同年最終戦二塁手として先発した後、1000万円の功労金を受け取り10月27日退団した契約1981年まで残っていたが、腰痛(これが原因守備力落ち大洋からの放出つながった)に加え若手育成チーム方針もあり、引退つながった

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NPB時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:56 UTC 版)

伊藤隆偉」の記事における「NPB時代」の解説

プロ入り当時年齢25歳)から、1年目1988年)は即戦力として期待されたが、同年一軍では登板できず、二軍ウエスタン・リーグ)で12試合登板先発登板は6試合/3勝3敗・防御率5.95)したのみ終わったドラフト同期伊藤敦規山内嘉弘先を越され格好となったが、球団名が「オリックス・ブレーブスとなった1989年推定年俸470万円シーズン一軍34試合登板(うち先発5試合リリーフ29試合)して3勝4敗2セーブ防御率4.46の成績残し同年オフには年俸940万円推定)に増額された。1990年チーム最多となる48試合登板(うちリリーフ45試合)し、26試合交代完了して首脳陣からの信頼得た同年は1勝3敗6セーブ防御率4.72)。同年には東海理化時代職場知り合った5歳年下女性婚約し同年12月挙式本拠地阪急西宮球場から神戸総合運動公園野球場愛称グリーンスタジアム神戸)に移転し球団名も「オリックス・ブルーウェーブ」に改称され1991年シーズン推定年俸1,600万円)は中継ぎ投手として活躍し28試合登板して1勝0敗2セーブ防御率4.90)の成績残した1992年シーズン推定年俸1,600万円)は抑え投手として8セーブポイント挙げ1993年シーズン推定年俸2,040万円)も野村貴仁とともに抑えとして活躍しチーム最多16セーブ17セーブポイント)を挙げた。この2年間では高い奪三振率記録し防御率2点台と安定した成績残していた。1994年シーズン推定年俸3,500万円)はリリーフのみで29試合登板し、3勝2敗4セーブ防御率3.40)の成績残した1995年シーズン推定年俸4,000万円)はともに自己最多となる85投球回数・6勝を記録しオリックスリーグ優勝貢献また、同年6月25日対日本ハムファイターズ戦ではプロ完封勝利記録した1996年シーズン推定年俸4,000万円)は後半戦から戦列合流一軍戦ではわずか3試合登板未勝利)に終わったが、日本シリーズでは3試合救援登板して6イニング失点好投し日本一決めた第5戦では勝利投手にもなった。 1997年シーズン推定年俸3,200万円)は先発ローテーション一角担った4月11日の対福岡ダイエーホークス戦で2年ぶりに勝利投手になり、5月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦では完封勝利記録。また7月 - 8月には5連勝記録しタフィ・ローズ近鉄バファローズとともに同年7月パ・リーグ月間MVP選出された。同シーズンは初の2勝利となる10勝を挙げ規定投球回にも到達したパ・リーグ投手成績11位)。1998年年俸5,500万円となったが、同シーズン開幕から4連敗し5月31日の対西武ライオンズ戦で初勝利を挙げたが、シーズン通じて負け越した1999年シーズン推定年俸4,600万円)は佐藤義則引退によりチーム投手陣最年長となったが、同シーズン途中6月8日付で発表)に柳沢裕一との交換トレード読売ジャイアンツ巨人)に移籍。しかし移籍後二軍でも登板はなく、同年10月4日までに巨人から戦力外通告を受ける。同年12月2日付でプロ野球コミッショナー事務局から自由契約選手として公示され横浜ベイスターズ入団テスト受けた不合格終わった

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NPB時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 16:50 UTC 版)

ケント・ハドリ」の記事における「NPB時代」の解説

1962年日本プロ野球NPB)の南海ホークス入団メジャー経験もある打者として期待された。同年5月1日の対西鉄戦でいきなりNPBでの初打席本塁打放ったその後自慢長打力発揮し1963年には打率.295、30本塁打84打点成績残しこの年オールスターゲームにも選ばれている。翌年からも2年連続本塁打29放ち(後に外国人選手として初め通算100本塁打マーク)、「ケンちゃん」の愛称南海主力として活躍した1967年退団。 特に1966年の日本シリーズでは南海の1勝3敗で迎えた第5戦(大阪スタヂアム)で、延長14回表に巨人勝ち越しを許すものの、その裏ハドリ逆転サヨナラ2ランホームランを放ち南海一矢を報いて意地見せた本人日本を去る際、問われ日本で一番記憶に残るプレーにこのホームラン挙げた。なおハドリ1964年の日本シリーズ第4戦(対阪神タイガース)でもサヨナラホームラン放っており、日本シリーズで2本のサヨナラホームランシリーズ記録である。

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