NPB時代
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2008年はイースタン・リーグで80試合に出場し、二塁手としてレギュラーの梶本勇介に次ぐ50試合、遊撃手としても15試合守備についた。元々送球に難があるとされており、特に遊撃手としては失策が多かった。課題とされた打撃面は、打率.283、出塁率.349と1年目としては上々の結果を残した。イースタン・リーグ2位となる24盗塁を記録した。 2009年はイースタンリーグでの成績が評価され、6月26日に一軍選手登録されたが、翌日抹消された。7月9日に再び一軍登録され7月10日の横浜戦で代走で初出場、盗塁を試みるも失敗に終わった。イースタンリーグでは主に二塁手として出場し、盗塁王(36盗塁)と最高出塁率(.397)の二冠となり、打率もリーグ3位の.321であった。シーズン終了後、宮崎でフェニックスリーグに参加していたが、10月19日に三度目の一軍登録を受け、同日の中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ第3戦に代走として出場した。 2010年は一軍キャンプスタートとなり、オープン戦でも主に代走として起用された。4月3日の横浜戦で代走で出場。4月9日の対阪神タイガース戦に1番レフトでスタメン起用され、最初の打席で安藤優也からプロ入り初安打を放った。内野手登録だが、2010年は左翼手としての出場しかなかった。 2011年はスタメン出場は1試合に終わったが、故障した福地寿樹にかわり、代走の切り札としてリーグ2位の39回出場し、守備では外野全ポジションにサード、セカンドと5つのポジションを守った。この年、パ・リーグ球団からトレードの申し入れがあったことが後に明らかにされている。 2012年は、プロ入り初の二塁打をマークするなどと自己最多65試合に出場。代走としてチームトップの29回出場し、守備では昨年と同じく5つのポジションを守った。 2013年4月9日戸田球場で行われたファーム練習試合・新潟アルビレックスBC戦にてプロ入り初の「2番・捕手」でスタメン出場。同年の4月12日一軍に登録。4月17日の対中日戦で9回に畠山和洋の代走として出場したが、チームが同点に追いつき延長戦に入った際に選手を使い果たし、ベンチに一塁を守ることができる選手が一人もいなくなってしまったため、急遽プロ入り初めて一塁手として守備に就いた。4月25日の対広島戦に記録したプロ入り初打点が、「人生初」のサヨナラヒットとなった。 2014年32試合に出場した。 2015年自己最多となる87試合に出場した。20安打、7打点も自己最多となる。日本シリーズでは第4戦の8回に代打として出場した(結果はサードゴロ)。 2016年は6月26日の中日戦、4-4の延長11回1死満塁の場面で代打で登場すると、センターに3年ぶりのサヨナラヒットを放った。 2017年の出場は16試合にとどまり、オフの契約更改後の会見では「結果を残さないと(試合に)出れないのは当たり前。仕方がないと思っている」と述べた。この年5月のプロ野球実行委員会では、独立リーグ出身者の国内FA権取得に際して大学・社会人出身者と同じ条件(一軍登録日数で7年)を認めるかにつき、三輪の取得を念頭に置いた議論がおこなわれた。香川に入る前に社会人の軟式野球部に所属していたことから、三輪が取得する場合は社会人出身者と同じ扱いとなることが確認されたが、一軍登録日数が条件に届かず、2017年シーズンでの資格取得には至らなかった。 2018年7月30日、独立リーグ出身選手では初となる国内フリーエージェント資格を取得した。出場機会は前年から微増し、2年ぶりの安打と打点を記録した。 2019年イースタン・リーグの試合には出場していたものの一軍昇格の機会がないままシーズンを過ごし、9月17日に今シーズン限りで現役引退することが発表された。9月22日の対巨人23回戦終了後に引退セレモニーが行われ(一軍登録されていなかったため試合には出場せず)、この日の試合が降雨コールドゲームだったこともあり、引退挨拶の後にはホームベース上のブルーシートにヘッドスライディングを二度披露した。結局、現役選手として最後に出場した試合は、9月26日のイースタン・リーグ対ロッテ戦であった。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示。
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NPB時代
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1971年12月10日、大洋に入団。近藤昭仁に代わる二塁手として、常に3割を狙える安定した打撃を売りにクリーンナップの一角として活躍。守備にも定評があり、1972年・1973年にダイヤモンドグラブ賞(二塁手)を受賞、1970年代のプロ野球を代表する二塁手となった。1975年には自己最多の34本塁打を記録。その長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライオン丸」にちなんで「ライオン丸」の愛称で親しまれ、球団が川崎を去る1977年まで在籍。尚、トレードマークだった長髪と髭は下記のように、巨人移籍と同時にバッサリ切ったが、2022年2月発刊の「シリーズよみがえる1970年代のプロ野球PART.2」によると大洋在籍時の昭和50年6月頃にも綺麗に切ったことがあり、違和感を覚えた小学生のファンからサインを求められた際にはカタカナで「シピン」と書き添えていたと言う。 1978年3月20日に金銭トレードで巨人に移籍。移籍の際にトレードマークとなっていた長髪と髭をばっさり、切った。入団1年目は二塁手に土井正三がいたため、右翼手との掛け持ちだった。巨人の第42代4番打者にもなっている。1979年も中心打者として活躍したが、1980年には篠塚利夫が台頭し定位置を奪取。同年の最終戦に二塁手として先発した後、1000万円の功労金を受け取り10月27日退団した。契約は1981年まで残っていたが、腰痛(これが原因で守備力が落ち、大洋からの放出につながった)に加え、若手育成のチーム方針もあり、引退につながった。
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NPB時代
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プロ入り当時の年齢(25歳)から、1年目(1988年)は即戦力として期待されたが、同年は一軍では登板できず、二軍(ウエスタン・リーグ)で12試合に登板(先発登板は6試合/3勝3敗・防御率5.95)したのみで終わった。ドラフト同期の伊藤敦規・山内嘉弘に先を越される格好となったが、球団名が「オリックス・ブレーブス」となった1989年(推定年俸470万円)シーズンは一軍で34試合に登板(うち先発5試合・リリーフ29試合)して3勝4敗2セーブ・防御率4.46の成績を残し、同年オフには年俸が940万円(推定)に増額された。1990年はチーム最多となる48試合に登板(うちリリーフ45試合)し、26試合で交代完了して首脳陣からの信頼を得た(同年は1勝3敗6セーブ・防御率4.72)。同年には東海理化時代に職場で知り合った5歳年下の女性と婚約し、同年12月に挙式。 本拠地が阪急西宮球場から神戸総合運動公園野球場(愛称:グリーンスタジアム神戸)に移転し、球団名も「オリックス・ブルーウェーブ」に改称された1991年シーズン(推定年俸1,600万円)は中継ぎ投手として活躍し、28試合に登板して1勝0敗2セーブ(防御率4.90)の成績を残した。1992年シーズン(推定年俸1,600万円)は抑え投手として8セーブポイントを挙げ、1993年シーズン(推定年俸2,040万円)も野村貴仁とともに抑えとして活躍し、チーム最多の16セーブ(17セーブポイント)を挙げた。この2年間では高い奪三振率を記録し、防御率も2点台と安定した成績を残していた。1994年シーズン(推定年俸3,500万円)はリリーフのみで29試合に登板し、3勝2敗4セーブ(防御率3.40)の成績を残した。 1995年シーズン(推定年俸4,000万円)はともに自己最多となる85投球回数・6勝を記録し、オリックスのリーグ優勝に貢献。また、同年6月25日の対日本ハムファイターズ戦ではプロ初完封勝利も記録した。1996年シーズン(推定年俸4,000万円)は後半戦から戦列に合流。一軍戦ではわずか3試合の登板(未勝利)に終わったが、日本シリーズでは3試合で救援登板して6イニング無失点と好投し、日本一を決めた第5戦では勝利投手にもなった。 1997年シーズン(推定年俸3,200万円)は先発ローテーションの一角を担った。4月11日の対福岡ダイエーホークス戦で2年ぶりに勝利投手になり、5月6日の対千葉ロッテマリーンズ戦では完封勝利を記録。また7月 - 8月には5連勝を記録し、タフィ・ローズ(近鉄バファローズ)とともに同年7月のパ・リーグ月間MVPに選出された。同シーズンは初の2桁勝利となる10勝を挙げ、規定投球回にも到達した(パ・リーグ投手成績11位)。1998年は年俸5,500万円となったが、同シーズンは開幕から4連敗し、5月31日の対西武ライオンズ戦で初勝利を挙げたが、シーズンを通じて負け越した。 1999年シーズン(推定年俸4,600万円)は佐藤義則の引退によりチームの投手陣で最年長となったが、同シーズン途中(6月8日付で発表)に柳沢裕一との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍。しかし移籍後は二軍でも登板はなく、同年10月4日までに巨人から戦力外通告を受ける。同年12月2日付でプロ野球コミッショナー事務局から自由契約選手として公示され、横浜ベイスターズの入団テストを受けたが不合格に終わった。
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NPB時代
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1962年に日本プロ野球(NPB)の南海ホークスに入団。メジャー経験もある打者として期待された。同年5月1日の対西鉄戦でいきなりNPBでの初打席本塁打を放った。その後も自慢の長打力を発揮し、1963年には打率.295、30本塁打、84打点の成績を残し、この年のオールスターゲームにも選ばれている。翌年からも2年連続で本塁打を29本放ち(後に外国人選手として初めて通算100本塁打をマーク)、「ケンちゃん」の愛称で南海の主力として活躍した。1967年に退団。 特に1966年の日本シリーズでは南海の1勝3敗で迎えた第5戦(大阪スタヂアム)で、延長14回表に巨人に勝ち越しを許すものの、その裏にハドリが逆転サヨナラ2ランホームランを放ち、南海が一矢を報いて意地を見せた。本人も日本を去る際、問われて日本で一番記憶に残るプレーにこのホームランを挙げた。なおハドリは1964年の日本シリーズ第4戦(対阪神タイガース)でもサヨナラホームランを放っており、日本シリーズで2本のサヨナラホームランはシリーズ記録である。
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