1978年死刑確定囚(4人)
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事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)正寿ちゃん誘拐殺人事件 (K) 1977年12月20日 1969年9月10日 1950年(昭和25年)8月28日生まれ。犯行時19歳の少年死刑囚。金のある質屋の子供を誘拐して身代金を得ようと考え、東京都渋谷区内で当時6歳の男児(広尾小学校1年生・渋谷区恵比寿在住)を身代金目的で誘拐し、渋谷区東三丁目の公衆便所内にて繰り小刀で刺殺した。その後、男児の死体をオープンケースに詰め、これを駅構内の携帯品一時預かりところに預けて遺棄したほか、男児の実家(質屋)に電話を掛けて身代金500万円を要求した(殺人・死体遺棄・身代金目的拐取および要求)。このほか身代金目的拐取予備1件・器物損壊2件・恐喝未遂1件・現住建造物放火未遂1件の余罪あり。1972年(昭和47年)4月8日に東京地裁刑事第12部で死刑判決を受け、1976年(昭和51年)7月20日に東京高裁第8刑事部で控訴棄却判決を受けた。1977年(昭和52年)12月20日に最高裁第三小法廷で上告棄却判決を受けて死刑が確定。1979年に東京拘置所で死刑執行(29歳没)。 東京連続少年誘拐殺人事件 (K) 1978年1月26日 1965年1月22日1970年10月17日 1925年(大正14年)5月31日生まれ(2. の事件当時45歳)。海軍軍楽隊当時、上官から求められて同性愛行為の間柄となったことを契機に、終戦後にはバンド仲間や家出少年、勤務先の工場付近で遊んでいた中学生などと同性愛行為を繰り返し、1962年(昭和37年)6月には中学生の裸体写真を撮影したことが発覚して警察署で取り調べを受けたこともあった。1965年(昭和40年)1月22日19時ごろ、東京都小金井市中町で帰宅途中に偶然見かけた小学校6年生の男児(12歳)を「いずれ将来は同性愛行為の対象にしよう」と考え、男児と親しくなるつもりで連れ出した。しかし19時30分ごろ、自身が経営していた工場事務室(東京都三鷹市井口)に男児を連れ込んだところ、不安を感じた男児が逃げ出そうとしたため、抱きかかえて工場材料置き場に連れ込もうとしたが、さらに逃げようとした上に大声で騒いだため、これを従業員に気づかれたり、男児を連れ込んだことが警察に露見したりすることを恐れ、男児の殺害を決意。男児の首を荷造り用の紙紐で縛り、同工場または埼玉県狭山市大字根岸の山林内(もしくはその山林に向かう途中の自動車内)で絞殺した。犯行後、自分の工場の空き地で犯行に使用した紙紐や被害者の着衣・鞄などを焼却した。 1. の事件後、経営していた工場が経営不振で倒産したため、台東区内の土木建築業者で手配師として働き、山谷で労働者を集めていた。そのような中、小学校3年生の男児(当時8歳)と自身の趣味の話がきっかけで親しくなっていた。1970年(昭和45年)10月17日13時ごろ、男児から頼まれて自身の運転する自動車に同乗させたが、男児が自身を信用しきっていることにつけ込み、荒川河川敷に連れ込んで同性愛行為をしようと決意。荒川河川敷(埼玉県和光市大字下新倉)までわいせつ目的で男児を誘拐し、駐車中の社内で男児の体を触ったが、男児から拒絶され「両親に言いつける」などと言ったり、付近の自動車教習所を見て助けを求めようとする素振りを見せたため、口封じのため殺害を決意。14時30分ごろ、男児の首を強く絞め、鼻を塞いで気絶させたが、男児が死亡したと思って遺棄しようとしたところ、急に男児が起きて「おじさん、僕を殺すのか」と言ったため、車から持ってきた電工用ナイフ1丁(刃体の長さ約8.5 cm)で首を切りつけ、左胸(心臓)を2回刺して殺害。 事件後、警察庁は同じ誘拐であっても営利目的と比べわいせつ目的は罪が軽いとして、罰則強化に向けた検討を行った(結果的に変わらず)。1973年1月31日に東京地裁刑事第11部で死刑判決を受け、1976年10月7日に東京高裁第8刑事部で控訴棄却判決を受けた。1978年1月26日に最高裁第一小法廷で上告棄却判決を受け死刑が確定。1981年1月に東京拘置所で死刑執行(55歳没)。 愛知県武豊町一家3人強盗殺人事件 (O) 1978年4月17日 1971年5月1日 事業に失敗し、新たに砂利採取業を始めようとした1971年春、愛知県知多郡武豊町冨貴の男性(当時61歳)が山林約30,600平方メートル(当時の時価総額約2億5,000万円)を売りに出したことを知り、男性を殺害して財産を奪うことを決意。同年5月1日19時ごろ、土地の売買を装って男性宅を訪れ、男性と彼の内妻(当時44歳)を金槌で撲殺。偶然遊びに来ていた内妻のいとこの女性(当時24歳)も居間で絞め殺し、3人の遺体を全裸にした上で庭の下水用水槽に投げ込み、上からセメントを流し込んでコンクリート詰めにした。その後、男性宅にあった現金187,000円、預金通帳(残高43万円余)、不動産権利書16通、実印、株券、指輪などを盗み、預金を全額下ろした。また、自らの経営する共和電解工業と男性との間で山林の売買契約が成立したように装い、移転登記も済ませた。被害者3人の遺体は約8か月後に発見された。強盗殺人、死体遺棄、詐欺などの罪に問われた。逮捕当時から「主犯は別人」と主張し、公判中にも逃亡を図ったが、1974年5月20日に名古屋地裁刑事第2部(藤本忠雄裁判長)でOの単独犯と認定され、求刑通り死刑判決を受けた。1978年4月17日に最高裁第一小法廷(岸盛一裁判長)で上告棄却の判決を受け、一・二審の死刑判決が確定。1985年5月31日に名古屋拘置所で死刑執行(53歳没)。 群馬2女性強盗殺人事件 (N) 1978年6月22日 1968年9月9日1971年3月11日 1930年(昭和5年)10月3日生まれ(1. の事件当時37歳)。過去に詐欺1回・強盗および窃盗1回の前科あり。強盗および窃盗の罪で服役後、1967年12月に仮出所したが、群馬県碓氷郡松井田町(現:安中市)で以下の2事件(強盗殺人・死体遺棄・死体損壊)を起こしたほか、群馬県(安中市・高崎市)および埼玉県熊谷市で詐欺4件を犯した。仮釈放中の1968年9月9日、前刑(窃盗)の被害者である44歳女性宅を訪れ謝罪したところ、女性から罵られ、相手にされなかったことに逆上。当時金銭に窮していたこともあって、仕返しを兼ねて女性宅に押し入り、女性の腹を拳で殴るなどの暴行を加えたが、激しく抵抗されたために持っていた手拭いで絞殺。女性のがま口(現金18,000円入り)1個を奪い、死体を畑に埋めて遺棄した。 1. から約2年6か月後の1971年3月11日に発生。服役中に習得したミシンの技能を生かして生計を立てようとしたが、その資金の金策に苦慮していたところ、偶然付近で土地を売って1,000万円以上の大金を得た者がいる旨の話を聞き、その人物から金を奪おうと企てた。事件当日にその人物の家を下見し、翌12日深夜に覆面をして侵入したところ、留守番をしていた女性(当時48歳)と鉢合わせしたため、女性を手および細紐で絞殺して現金28,400円・定期預金証書4通などを強取した。さらに翌13日0時ごろ、死体を山林に運び出して放置し、同日夜にはのこぎりで死体の両足を切断し、15日夜には畑に埋めて遺棄した。 1974年(昭和49年)7月26日に前橋地裁高崎支部で死刑判決を受け、1975年(昭和50年)10月8日に東京高裁第9刑事部で控訴棄却判決を受けた。1978年6月22日に最高裁第一小法廷で上告棄却判決を受け死刑が確定。1984年10月30日に東京拘置所で死刑執行(54歳没)。
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