1978年:政権交代の準備
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「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「1978年:政権交代の準備」の解説
ベトナムの武力行使が沈静化した代わりに、カンボジア政府は、ベトナム軍の撤退は1975年4月17日の「アメリカ帝国主義の敗北」と並ぶ民主カンプチアの大勝利であると自画自賛した。カンボジアは更に併合主義者に対する1月6日の勝利でベトナムから侵攻した敵は、カンボジア共産党とカンプチア革命軍、わが党の人民戦線において、人民と国家の軍に対する大きな信頼を国民全てに与えたと宣言することになった。このような背景からカンボジアの指導部は、1人のカンボジア兵士は30人のベトナム兵士に相当し、そのためカンボジアが800万人の内から200万の兵士を召集したら、5000万人いるベトナム人を壊滅させて尚600万人が残ると訴えた。実際のところカンボジア指導部はカンボジア人とベトナム人の状態を単純に無視しており、カンボジア人が長年の重労働や飢餓、疾病で心身ともに疲弊しているのに対し、貧しいとはいえベトナム人の健康状態は良かった。 人口の不均衡に加えて、両国の戦闘能力にも大きな違いがあった。1977年、ベトナムは61万5000名の兵士と戦車900両を保有し、これらは人員12,000名、機材として1個軽爆撃大隊を含む戦闘機300機を擁する空軍に支援されると見られていた。対してカンボジアは7万名の軍で、重戦車はほとんどなく、装甲車は200輛、空軍の能力は限定的だった。このような大きな懸絶があったにもかかわらず、カンボジアはベトナムの国境地域の攻撃を続けて侵攻をためらう気配は見られなかった。1978年1月、カンボジア軍は依然としてベトナム領の一部を占領し、ハティエンのベトナム軍基地を占領し始めた。1978年1月27日、ベトナムは国境地域においてクメール・ルージュ政権を転覆させるようカンボジア軍に呼び掛け始めた。 1978年1月9日から2月20日にかけての軍事衝突を背景に、ベトナムの外務副大臣ファン・ヒエンは、カンボジアの代表団と対話を行うべく数回北京に向かったが、結局対話は成立しないことが明らかとなった。1978年1月18日、中国は副首相鄧穎超がプノンペンを訪れた際にカンボジアとベトナムの更なる交渉を仲介しようとしたが、そこではカンボジア指導部の強力な抵抗にあった。その一方、ベトナム当局者は、ベトナムの後援を受けての軍事動乱を企む、カンボジア東部戦線のクメール・ルージュ指導者ソ・ピムとの密会を画策し始めた。同時期、東部戦線のカンボジア軍によりクメール・ルージュは後退を経験し、ポル・ポトをしてこの地域に「裏切り者の巣窟」というレッテル貼りをさせることになった。 東部戦線はベトナムに汚されたと判断が下された。これを粛清する目的で、ポル・ポトは南西地域の部隊を東部カンボジアに動かし、「地下の裏切り者」を殲滅するよう命じた。このカンボジア政府の攻撃に持ちこたえられずに、副司令官ヘン・サムリンが逃亡する一方で、ソ・ピムは自殺した。1978年4月12日、カンボジア政府は、ベトナムが拡張主義の野心を捨て去りカンボジアの尊厳を認めるのなら、カンボジアとベトナムは再び交渉の席に着けると表明した。しかしこの表明では、ベトナムに対し、前提条件として7か月間の停戦を試みるにあたり、義務が数点付け加えられていた。ベトナム政府は即座にこの提案を拒否し、それに対してカンボジアの2個師団がベトナム領土に入り込み、アンザン省バチュク(ベトナム語版)村の2地区のほとんどの住民、3,157名を虐殺した(バチュク村の虐殺)。 1978年6月、ベトナム空軍は一日あたり爆撃機30機を飛行させ、多数のカンボジア人死傷者を生んだカンボジア国境付近への空爆を開始した。この時までに東部戦線で生き残ったほとんどの指導者はベトナムに逃げ込んでいた。彼らはポル・ポトのクメール・ルージュ政権と戦うべく、ベトナムの後援を受けた「解放軍」を結成する目的で、さまざまな秘密キャンプに集まった。その間、ベトナム共産党政治局は、カンボジア戦略について話し合う会合をハノイで開いていた。ここで彼らは、クメール・ルージュは中国の傀儡であり、中国はアメリカ合衆国を排除した後の政権の空白を埋めようとしてきたと断定した。このような経緯から中国はベトナムの主要な敵とされ、毛沢東主義的「人民戦争」理論へのベトナムの適応がクメール・ルージュの治安機構に対して成功していないことから、プノンペンの傀儡政権は伝統的な軍事組織により排除されなければならなかった。 国家指導部の判断を反映し、ベトナムの国営メディアはクメール・ルージュに対する宣伝戦争を加速した。またベトナム共産党機関紙ニャンザンは、クメール・ルージュ政権によるカンボジア国内の脅威からカンボジア人民を守るための国際的な介入を頻繁に希求していた。これらのメディアは共に活動を行った。さらに、前年まで行ったような祝賀メッセージを送る代わりに、ベトナムメディアはその様相を一変させ、カンボジア軍がベトナムで軍事行動を続けているとして「ポル・ポト=イエン・サリ一派」とカンボジア政府を呼び始めた。6月の終わりまでに、ベトナム軍は、カンボジアに対してもう一度限定的な攻撃を始めるための複数の師団を編成した。再びベトナムはスオン市とプレイヴェン市までカンボジア軍を押し返し、その後に撤退した。しかし以前のようにカンボジア軍は国境に向けて砲兵隊を移動させ、まるで無人の荒野を作り出そうとするようにベトナムの村々を砲撃し続けた。 1978年後半、ベトナム指導部はソビエト連邦の政治的支援を要請したが、これにはクメール・ルージュ政権に対する軍事行動に向けたエネルギーの多くが充てられた。ハノイに居たソ連臨時代理大使は、1978年7月25日付ベトナム外務省当局者の説明として、カンボジア政府はベトナム国境沿いに通常の17個師団のうち14個師団と16個連隊を動員したと発表した。1978年9月上旬、レ・ズアンはソ連大使にベトナムは「1979年初頭までにこのカンボジア問題を解決する」ことを目指していると伝えた。ベトナムが対カンボジア軍事行動に向けた政治的な基礎を置こうとする一方で、ソ連はカムラン湾の軍事部品や弾薬を引き上げていたと伝えられた。ベトナムのラジオは、カンボジア軍部に対し、「ポル・ポト=イエン・サリ一派」を転覆するか、ベトナムに対する防衛に当たるかを迫り、クメール・ルージュ政権に対する大規模な反乱を求めたと伝えた。 同年10月、フィリピンを訪問したカンボジアのイエン・サリは、現地の記者会見でベトナムとの国境紛争に触れ、ソビエト連邦がベトナムに兵器や軍事顧問を供給しているとして非難。カンボジア領内で2人のソ連人の遺体を発見していることをアピールした。 1978年11月3日は越ソ・中越の外交の三角関係と、ベトナムのカンボジア侵攻における主要な転回点であった。この日、中国がベトナムに対して干渉してきた際に極めて重要となる、ソ連の軍事援助を保証する友好協力条約が、ベトナムとソ連の間で調印された。レ・ドゥック・アイン将軍は国境地域沿いのベトナム軍部を完全に掌握しており、条約調印後の1978年11月、予定のカンボジア侵攻に向けて彼と共に司令部と管理本部が創設された。以前の損失を取り戻し、国境沿いの部隊を増強するため、ベトナム政府は35万人を召集した。新兵が訓練を終える間に10個師団が国境沿いのロンアン省、ドンタップ省、タイニン省に配備された。ベトナムはカンボジア・ラオス国境に向け、ラオス南方に拠点を置く3個師団も移動させた。1978年12月13日、中国政府は、ベトナムに対する中国の忍耐は我慢の限界に達しており、ベトナムが「制御できないやり方」で振舞うなら、罰せられるであろうと警告した。 にもかかわらず、ベトナムがカンボジアの「解放区」にカンプチア救国民族統一戦線 (KUFNS) 創設を発表すると、ベトナムの最終戦略の一端が明らかになった。ハノイでは、KUFNSの党員はあらゆる階級から構成され、独立したカンボジアの共産主義運動であると主張した。クメール・ルージュの一員でカンボジア第4師団司令官であったヘン・サムリンが、KUFNSの議長であった。以前はKUFNSはカンプチア暫定革命政府 (PRGK) として知られ、ベトナムに逃れたクメール・ルージュの基幹党員だった300人から成っていた。PRGKは1968年のソ連のチェコスロバキア侵攻と同様、在来型の軍事行動を採用し、ベトナムが「人民戦争」というアイディアを禁止する前に支援を求めて頻繁に外国へ代表団を送った。 ベトナムの軍備増強に勝らず、カンボジア政府は中国の支援による軍備増強に忙しかった。以前の中国は、限定的な武器弾薬の供与で民主カンプチアの国軍であるカンプチア革命軍(英語版)を創設しただけであったが、1978年にベトナムとの関係が悪化すると、北京はカンボジアを通る追加の支援路を設け、それぞれの支援路を通る大量の軍用装備を増加させた。ベトナムが侵攻を行う前夜には、カンボジアにはベトナムに接する東部戦線に約73,000名の兵士がいた。この時のカンボジア軍の分遣隊は全て明らかに大量の中国製の武器で強化され、戦闘機や警備艇、重砲兵隊、対空砲、トラック、戦車が存在した。加えてクメール・ルージュ政府を支援する、軍民双方からの1万から2万名の中国人顧問がいた。
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