1978年:政権交代の準備とは? わかりやすく解説

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1978年:政権交代の準備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:02 UTC 版)

カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「1978年:政権交代の準備」の解説

ベトナム武力行使沈静化した代わりにカンボジア政府は、ベトナム軍の撤退1975年4月17日の「アメリカ帝国主義敗北」と並ぶ民主カンプチア大勝利であると自画自賛した。カンボジアは更に併合主義者に対す1月6日勝利ベトナムから侵攻した敵は、カンボジア共産党カンプチア革命軍わが党人民戦線において、人民国家の軍に対す大きな信頼国民全て与えた宣言することになったこのような背景からカンボジア指導部は、1人カンボジア兵士30人ベトナム兵士相当し、そのためカンボジア800万人の内から200兵士召集したら、5000万人いるベトナム人壊滅させて尚600万人が残ると訴えた実際のところカンボジア指導部カンボジア人ベトナム人の状態を単純に無視しており、カンボジア人長年重労働飢餓疾病心身ともに疲弊しているのに対し貧しとはいえベトナム人健康状態良かった人口不均衡に加えて両国戦闘能力にも大きな違いがあった。1977年ベトナム615000名の兵士戦車900両を保有し、これらは人員12,000名、機材として1個軽爆撃大隊を含む戦闘機300機を擁する空軍支援されると見られていた。対してカンボジアは7名の軍で、重戦車はほとんどなく、装甲車200輛、空軍能力限定的だった。このような大きな懸絶があったにもかかわらずカンボジアベトナム国境地域攻撃続けて侵攻をためらう気配見られなかった。1978年1月カンボジア軍依然としてベトナム領の一部占領しハティエンベトナム軍基地占領し始めた1978年1月27日ベトナム国境地域においてクメール・ルージュ政権転覆させるようカンボジア軍呼び掛け始めた1978年1月9日から2月20日にかけての軍事衝突背景に、ベトナム外務副大臣ファン・ヒエンは、カンボジア代表団対話を行うべく数回北京向かったが、結局対話成立しないことが明らかとなった1978年1月18日中国副首相鄧穎超プノンペン訪れた際にカンボジアベトナム更なる交渉仲介しようとしたが、そこではカンボジア指導部強力な抵抗にあった。その一方ベトナム当局者は、ベトナム後援受けて軍事動乱企むカンボジア東部戦線クメール・ルージュ指導者ソ・ピムとの密会画策し始めた同時期、東部戦線カンボジア軍によりクメール・ルージュ後退経験しポル・ポトをしてこの地域に「裏切り者巣窟」というレッテル貼りをさせることになった東部戦線ベトナム汚されたと判断下された。これを粛清する目的で、ポル・ポト南西地域部隊東部カンボジア動かし、「地下の裏切り者」を殲滅するよう命じた。このカンボジア政府攻撃持ちこたえられずに、副司令官ヘン・サムリン逃亡する一方でソ・ピム自殺した1978年4月12日カンボジア政府は、ベトナム拡張主義野心捨て去りカンボジア尊厳認めるのなら、カンボジアベトナムは再び交渉の席に着けると表明した。しかしこの表明では、ベトナム対し前提条件として7か月間の停戦試みにあたり義務が数点付け加えられていた。ベトナム政府即座にこの提案拒否し、それに対してカンボジアの2個師団ベトナム領土入り込みアンザン省バチュク(ベトナム語版)の2地区のほとんどの住民、3,157名を虐殺したバチュク村の虐殺)。 1978年6月ベトナム空軍一日あたり爆撃機30機を飛行させ、多数カンボジア人死傷者生んだカンボジア国付近への空爆開始した。この時までに東部戦線生き残ったほとんどの指導者ベトナム逃げ込んでいた。彼らはポル・ポトクメール・ルージュ政権と戦うべく、ベトナム後援受けた解放軍」を結成する目的で、さまざまな秘密キャンプ集まったその間ベトナム共産党政治局は、カンボジア戦略について話し合う会合ハノイ開いていた。ここで彼らは、クメール・ルージュ中国傀儡であり、中国アメリカ合衆国排除した後の政権空白埋めよとしてきたと断定したこのような経緯から中国ベトナム主要な敵とされ、毛沢東主義的「人民戦争理論へのベトナム適応クメール・ルージュ治安機構に対して成功していないことから、プノンペン傀儡政権伝統的な軍事組織により排除されなければならなかった。 国家指導部の判断反映しベトナム国営メディアクメール・ルージュ対す宣伝戦争を加速した。またベトナム共産党機関紙ニャンザンは、クメール・ルージュ政権によるカンボジア国内の脅威からカンボジア人民を守るための国際的な介入頻繁に希求していた。これらのメディアは共に活動行った。さらに、前年まで行ったような祝賀メッセージを送る代わりに、ベトナムメディアはその様相を一変させ、カンボジア軍ベトナム軍事行動続けているとして「ポル・ポトイエン・サリ一派」とカンボジア政府呼び始めた6月終わりまでに、ベトナム軍は、カンボジアに対してもう一度限定的な攻撃始めるための複数師団編成した。再びベトナムスオン市とプレイヴェン市までカンボジア軍押し返しその後撤退した。しかし以前のようにカンボジア軍国境向けて砲兵隊移動させ、まるで無人荒野作り出そうとするようにベトナム々を砲撃し続けた1978年後半ベトナム指導部ソビエト連邦政治的支援要請したが、これにはクメール・ルージュ政権対す軍事行動向けたエネルギー多く充てられた。ハノイ居たソ連臨時代理大使は、1978年7月25日ベトナム外務省当局者の説明として、カンボジア政府ベトナム国境沿いに通常の17師団のうち14師団16連隊動員した発表した1978年9月上旬レ・ズアンソ連大使ベトナムは「1979年初頭までにこのカンボジア問題解決する」ことを目指していると伝えたベトナムが対カンボジア軍事行動に向けた政治的な基礎置こうとする一方でソ連カムラン湾軍事部品弾薬引き上げていたと伝えられた。ベトナムラジオは、カンボジア軍部に対し、「ポル・ポトイエン・サリ一派」を転覆するか、ベトナム対す防衛に当たるかを迫りクメール・ルージュ政権対す大規模な反乱求めた伝えた同年10月フィリピン訪問したカンボジアイエン・サリは、現地記者会見ベトナムとの国境紛争触れソビエト連邦ベトナム兵器軍事顧問供給しているとして非難カンボジア領内2人ソ連人の遺体発見していることをアピールした1978年11月3日は越ソ・中越外交三角関係と、ベトナムのカンボジア侵攻における主要な転回であった。この日、中国ベトナムに対して干渉してきた際に極めて重要となる、ソ連軍事援助保証する友好協力条約が、ベトナムソ連の間で調印された。レ・ドゥック・アイン将軍国境地域沿いのベトナム軍部を完全に掌握しており、条約調印後の1978年11月予定カンボジア侵攻向けてと共に司令部管理本部創設された。以前損失取り戻し国境沿いの部隊増強するため、ベトナム政府35万人召集した新兵訓練終える間に10師団国境沿いのロンアン省ドンタップ省タイニン省配備された。ベトナムはカンボジア・ラオス国境に向け、ラオス南方拠点を置く3個師団移動させた。1978年12月13日中国政府は、ベトナム対す中国忍耐我慢の限界達しており、ベトナムが「制御できないやり方」で振舞うなら、罰せられるであろう警告した。 にもかかわらずベトナムカンボジアの「解放区」にカンプチア救国民族統一戦線 (KUFNS) 創設発表すると、ベトナム最終戦略の一端明らかになった。ハノイでは、KUFNSの党員あらゆる階級から構成され独立したカンボジア共産主義運動であると主張したクメール・ルージュ一員カンボジア第4師団司令官であったヘン・サムリンが、KUFNSの議長であった以前はKUFNSはカンプチア暫定革命政府 (PRGK) として知られベトナム逃れたクメール・ルージュ基幹党員だった300人から成っていた。PRGKは1968年ソ連チェコスロバキア侵攻と同様、在来型の軍事行動採用しベトナムが「人民戦争」というアイディア禁止する前に支援求めて頻繁に外国代表団送ったベトナム軍備増強に勝らず、カンボジア政府中国支援による軍備増強忙しかった以前中国は、限定的な武器弾薬供与民主カンプチア国軍であるカンプチア革命軍英語版)を創設しただけであったが、1978年ベトナムとの関係悪化すると、北京カンボジアを通る追加支援路を設けそれぞれの支援路を通る大量軍用装備増加させた。ベトナム侵攻を行う前夜には、カンボジアにはベトナム接す東部戦線に約73,000名の兵士がいた。この時のカンボジア軍分遣隊全て明らかに大量中国製武器強化され戦闘機警備艇重砲兵隊対空砲トラック戦車存在した加えてクメール・ルージュ政府支援する軍民双方からの1万から2万名の中国人顧問がいた。

※この「1978年:政権交代の準備」の解説は、「カンボジア・ベトナム戦争」の解説の一部です。
「1978年:政権交代の準備」を含む「カンボジア・ベトナム戦争」の記事については、「カンボジア・ベトナム戦争」の概要を参照ください。

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