1979-1981: ポストパンクからエレクトロニック・ボディー・ミュージック、ノイエ・ドイチェ・ヴェレへ
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1979年、ファーストアルバム "Ein Produkt der Deutsch-Amerikanischen Freundschaft" の録音前にリードシンガーであるガビ・デルガド=ロペスはすぐに復帰するものの、いったんバンドを離れた。このため、ファーストアルバムは純粋なインストゥルメンタルとなった。"Produkt" は、タイトルのない1~2分程度のトラックを22曲収録。ノイズの入り混じった、ほとんどフリー・ジャズともいうべきインスト作品である。英米のロック/ポップミュージック文脈から意図的に離れ、70年代末から80年代初期のドイツのパンク、ニューウェーブの幕開けを告げる作品となった。アルバムはキーボード担当のクルト・ダールケのレーベル "Warning"から発売。後にアタ・タックと改称されるこのレーベルは、初期ノイエ・ドイチェ・ヴェレの最重要レーベルとなる。(所属アーティストに、フェルファーベン "Fehlfarben"、 デア・プラン、アンドレアス・ドラウ、ピロレーターなど。)シンセサイザーのエキスパートであるクルト・ダールケがバンドを離れると、グループはヴァージン・レコードと契約。イギリスから国際的な成功へと向かうことになる。ダールケの後釜としてクリス・ハースが加入。ロベルト・ゲアルとともにDAFの特徴となるKorg MS-20を使ったシーケンサーサウンドを構築していく。新メンバーで『ケバブ・トラウム』"Kebab Träume"(DAFの代表作、発音は正しくは「〜・トロイメ」)と "Ich und die Wirklichkeit" のシングルを発表。ミヒャエル・ケムナーの脱退により、ロベルト・ゲアル/ガビ・デルガド=ロペス/クリス・ハース/ヴォルフガング・シュペルマンスの4人組となる。 1980年、アルバム『小者・悪者』("Die Kleinen Und Die Bösen")発表。国際的な注目を浴びる。LPのA面はコニー・プランクのスタジオでの録音。(ちなみに、クラフトワーク、ノイ!、ウルトラヴォックスなども、このスタジオでレコーディングしている。) B面は、ロンドンのクラブ "The Electric Ballroom" でWireの前座として出演した際のライブ録音。ロベルト・ゲアル曰く、内容的には彼らを凌駕していた。『小者・悪者』("Die Kleinen Und Die Bösen")はロンドンのダニエル・ミラー傘下のミュート・レコードから発売され、大成功を修める。 『小者・悪者』("Die Kleinen Und Die Bösen")は、エレクトロニック・ボディー・ミュージック、ノイエ・ドイチェ・ヴェレの草分けとなったアルバムである。前作 "Ein Produkt der Deutsch-Amerikanischen Freundschaft" の音色を引き継ぎつつも、楽曲は曲としての体裁を取り始め、シーケンサーの導入により、リズムに主眼が置かれた構成になっている。(ヴォルフガング・シュペルマンスのギターは、メロディーを奏でるのではなく、純粋に音を発する道具として使用されている。)ガビ・デルガドのアグレッシブにがなり立てるヴォーカルから放たれる歌詞は、論議を呼んだ。(『愉快な長靴』"Die Lustigen Stiefel"、『これが愛だ』"Das Ist Liebe" など。) その後、同じメンバー構成でのツアーを経たのち、ロベルト・ゲアルとガビ・デルガド=ロペスは活動のコンセプトの焦点を絞り込むことにし、クリス・ハースとヴォルフガング・シュペルマンスはバンドから脱退した。
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