1870年代から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 19:01 UTC 版)
「人間動物園」の記事における「1870年代から第二次世界大戦まで」の解説
異民族の生態的な展示は1870年代に様々な国で人気を集めた。ハンブルク、アントワープ、バルセロナ、ロンドン、ミラノ、ニューヨーク、およびワルシャワの各地に人間動物園があり、20万人から30万人の観客を集めた。野生動物商で、のちにヨーロッパで多くの動物園を開業したカール・ハーゲンベックは、1874年に「完全に自然なままの」民族としてサモア人とサーミ人を展示した。 また1876年には、彼はエジプト領スーダンから、野生動物とヌビア人を連れてこさせている。 ヌビア人の展示はヨーロッパで非常に成功し、パリ、ロンドン、ベルリンを巡業した。 また、彼はラブラドールのホープデイルで多くの"エスキモー"(イヌイット)を手に入れた。このイヌイットはハンブルクのハーゲンベック動物園に展示された。 1877年、ブローニュの森のジャルダン・ダクリマタシオン(順化園)の学芸員アルベルト・ジョフロア・ド・サンヒレアは、ヌビア人とイヌイットを紹介した二つの民族学的な展示をすることにした。結果年間訪問者数は100万まで倍増した。また1877年と1912年の間には、約30回の民族学的な催しがジャルダン・ダクリマタシオンで行われた。オーギュスト・コントの弟子のエミール・コラは、ここを訪問し、原始的な人種であっても利己主義よりも社交性が強いという仮説の検証をした。 こうした民族展示は、万国博覧会の格好の客寄せとして注目を浴びた。1878年パリ万博と1889年パリ万博の両方において、黒人村(village nègre)というパビリオンが作られ、2800万人が訪問した。1889年の博覧会では主要展示として400人の先住民が展示された。アンヴァリッド広場に設けられた植民地コーナーでは、各国の植民地の原住民がそこで生活をし、その暮らしぶりを展示として来場者に見せる「植民地の人々の 生活」の展示が行われた。ここで披露された民族音楽の演奏は、ヨーロッパの多くの人々が非ヨーロッパの音楽に初めて触れる機会となり、ドビュッシーを筆頭に西洋音楽家に影響を与えた。 1900年のパリ万博ではマダガスカルの植民地集落が再現され生活展示が行われた。一方マルセイユ(1906年、1922年)とパリ(1907年、1931年)での植民地博覧会ではしばしば裸の、または半裸の人間の展示がなされた。1931年のパリ植民地博覧会は半年に3400万人が訪れるほど成功した。もっとも反植民地主義の立場からの批判は当時から存在した。フランス共産党によって企画された”植民地の真実”と題する小さな展覧会では、植民地博覧会と同時に行われ、植民地経営によって植民地の住民が幸福になったという博覧会のプロパガンダとは対照的に圧政による抑圧や、農園での支配が告発されていた。しかしそこにはほとんど人が訪れなかった。この展覧会の第一室は植民地における強制労働についてのアルベルト・ロンドレとアンドレ・ジイドの評論家の記述を思い起こさせるものだった。セネガルの遊牧民の村も展示された。 1883年、オランダ国立博物館の後背地で開催されたアムステルダム国際植民地輸出博覧会でもスリナムの先住民が展示された。 1896年、訪問者数を増加させるためにシンシナティ動物園は、100人のスー族インディアンに園内に村を設立するよう誘うと、スー族は3カ月動物園に生活した。 1901年、汎アメリカ(フィラデルフィア)博覧会と1893年のコロンビア博覧会でも同様の展示が行われた。そこではベリーダンサーのリトル・エジプト(Little Egypt)が踊った。 1904年のセントルイス万国博覧会では、社会進化論に基づいて人類が序列化され、娯楽街「Pike」、人類学部門、「フィリピン村」の三ヵ所でこれまでの万博を大きく上回る規模で「人間の展示」が行われた。アパッチ族、フィリピンのイグロット族、およびザイールピグミーのムブティ族であるオタ・ベンガは「原始的」というプレートをつけられて展示された。米西戦争に続いて、米国はちょうどグアムや、フィリピンや、プエルトリコなどの新しい領土を取得したところだったのだが、何人かの原住民を「展示すること」にしたのだ。 セコイア・アデ師によると 1904年に開催されたセントルイス万博において、合衆国は米比戦争における最終的な被害と、フィリピン人にもたらされた屈辱を連続して示すなど、フィリピンを中心的に展示した。熱狂的な「進化的発展のパレード」と呼ばれた展示の前に立てば、訪問者たちはラドヤード・キップリングの詩「白人の責務」を正当化する「文明的なるもの」の対になる「原始的なるもの」がどういったものかを知らしめされた。ニューギニアとアフリカからのピグミー (このアフリカ人は、後にブロンクス動物園の霊長類部門で展示された)は、アパッチ戦士ジェロニモなどのインディアンの横で練り歩かされ、ジェロニモはサインを販売することもした。しかし中心的な展示は、後進性を示すために完全に復元されたフィリピン人の伝統的住居だった。その狙いは、米比戦争の直後にアメリカの統治による「文明化」の影響と、フィリピン諸島に存在する天然資源の経済的なポテンシャルの両方を強調することだった。伝えられるところによれば、それは博覧会で表示された中で最も大きい特定のアボリジニの展示品だった。 1人の嬉しい訪問者が論評したように、人間動物園展示は「世界が進歩する間に奇妙な有り様を示す民族、およびアメリカの力で文明的な労働者にされた野蛮人の物語」だったのだ。 楠本(2007)によれば、フィリピン村にはフィリピンの諸民族1200人が集められたが、特にイグロット人の犬を食べる習俗が強調されたために、フィリピン人一般の話とアメリカ人に受け止められたのではないかという不満を、米国に留学していたフィリピン人学生が記録に残している。一方で植民地支配の正当化のために、教育施設や裁判所などのインフラの整備を行ったことが強調され、教育されたフィリピン人兵士がパレードを行った。 「 アフリカ人のピグミー、「オタ・ベンガ」年齢:23歳。身長:4フィート11インチ体重:103ポンドカサイ川,コンゴ自由国、南中央のアフリカから、サミュエルP.ベルネル博士によって持って来られた。 9月中、霊長類厩舎の外側に各午後に展示。 1906年9月、ブロンクス動物園 」 1906年、社交界の名士でアマチュア人類学者のマディソン・グラント(ニューヨーク動物学協会会長)が、ニューヨーク市のブロンクス動物園にコンゴのピグミーのオタ・ベンガを霊長類や他の動物と一緒に並べて展示した。グラントの指示のもと、著名な優生学者で動物園園長のウィリアム・ホルナディは、チンパンジー・Dohongと名づけられたオランウータン・オウムと並べてオタ・ベンガを置き、まるでオタ・ベンガが進化論的にヨーロッパ人よりサルの近くであるかのように、彼にミッシングリンクのレッテルを貼った。それは牧師からの抗議の引き金となったが、公衆はオタ・ベンガの展示を見るために群れたと伝えられている。 ベンガは弦を撚り、弓矢を放ちオランウータンと闘った。ニューヨークタイムズによれば「人間を猿の仲間として展示することに対する異議はほとんどだされなかった」が、ニューヨーク在住の黒人聖職者が激しく非難したので、論争は勃発した。「我々の人種について、類人猿と我々を継ぐものはほとんど消え去ったと考えています」と、ジェームズH.ゴードン師(ブルックリンのハワード黒人孤児院長)は語った。「魂において、我々が人間であると考えるのが正しいのです。」 ニューヨーク市長ジョージ・B・マクレランJr.はその黒人聖職者に会うことを拒否した。一方でホルナディ博士を賞賛し、「動物園史が書かれるとき、この事件はその最も面白い挿話となるでしょう。」と彼に手紙をしたためた。論争は続いたが、ホルナディは弁解しないままでいた。彼のただ一つの狙いは「学術的な展示であると主張する」ことであった。別の手紙の中でボルナディは、10年後に人種差別的な小冊子“The Passing of the Great Race” を出版するニューヨーク動物学会の書記官マディソン・グラントと彼が、「黒人の聖職者によって社会が影響されてしまう、あってはならない緊急事態であった」と考えていたと綴っている。しかしホルナディはちょうど2日後に展示を閉じることに決めた。そして9月8日月曜日には、ベンガが動物園の敷地を歩いているのを発見されることとなった。彼はその後も群衆たちによって吠えられたり、あざけられたり、叫ばれたりすることが続いた。
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