1870年代の好景気
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「フォールリバー (マサチューセッツ州)」の記事における「1870年代の好景気」の解説
1871年から1872年に市の「最も劇的な拡大」が起こった。新しく15の会社が設立され、市中に22の新工場を建設し、古い工場も幾つか拡張された。この2年間に人口は2万人に達し、紡織機の数は全体で2倍の100万台を超えた。 1876年までに、ニューイングランド綿糸生産高の6分の1を生産でき、捺染した布の場合は半分が生産できた。「紡錘都市」と呼ばれるようになり、その規模はイングランドのマンチェスターに次いで、世界第2位だった。 この期間に入ってきた数多い新労働者、その大半はアイルランド系とフランス系カナダ人移民だったが、これを収容するために、12,000棟の社宅が建設された。ローウェルの初期にあった広さのある寄宿舎や、ロードアイランドのこぎれいなコテージとは異なり、フォールリバーの労働者住宅は木造のアパート、通常は3階建ての「トリプルデッカー」であり、6室までが1棟に収められた。他にも民間のアパートが社宅を補った。 19世紀を通じて花崗岩でも有名になり、町の多くの建物に使われた。この時期に石切場が幾つか操業されており、その中でも最大のものは現在のノースクエリー通り、ロカスト角近くにあったビーティ花崗岩採石場だった。市内の工場の多くも花崗岩で建設され、多くの公共建築物や個人住宅でも建材として重宝された。ロードアイランド州ニューポートのシャトー・スル・メール邸宅は、個人住宅建設にフォールリバー花崗岩が使われた最良の例である。 「丘の上」工場群の大半はフォールリバー花崗岩で造られていたのに対し、トーントン川やマウントホープ湾に沿ってある工場群はほとんど赤煉瓦で造られていた。これは市内を通し、岡から降ろして岩を運ぶコストが高く、実際的ではなかったためだった。急斜面のために鉄道は無かった。唯一の例外はノース・メインストリート沿いのサガモア・ミルズであり、フリータウンで切り出され、鉄道で運ばれた花崗岩を使っていた。
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