1870年から1871年にかけて
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「カール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ」の記事における「1870年から1871年にかけて」の解説
ボヘミア遠征の成功により、シュタインメッツは1870年から1871年にかけての普仏戦争で独自の司令部を託された。彼の下には第7 (VII Corps (German Empire)) および第8軍団 (VIII Corps (German Empire)) から構成される第1軍が配され、後に第1軍団 (I Corps (German Empire)) と第1騎兵師団も加わった。しかしこの職務にあって、今や74歳になっていたシュタインメッツは往年の冴えを見せることができなかった。電報の導入によって、軍司令官はこれまでよりずっと緊密に、最高司令部からの命令に束縛されるようになったのである。一方、大モルトケはすでに1866年の戦争から、この新しい装置を効率的に運用していた。他方、シュタインメッツは1870年8月6日、スピシュランの戦い (Battle of Spicheren) 司令部からの命令なしで高地への突撃を指示し、大損害を被っただけでなくプロイセン公子フリードリヒ・カール率いる第2軍の進軍路に赴き、両名と参謀本部との摩擦の原因を作っている。 ボルニー=コロンベの戦い (Battle of Borny-Colombey) の後、シュタインメッツの部隊は1個軍団にまで縮小された。スピシュランの戦いと同様、コロンベにおいても彼が戦場に到着した時には、戦闘が終わっていたのである。 1870年8月18日、グラヴェロットの戦い (Battle of Gravelotte) の時、シュタインメッツは独自の判断でフランス軍の有力な陣地に対する正面攻撃を命じ、それに参加した2個軍団は著しい損害を被った。この攻撃のため、彼は独断で第2軍の第8軍団を指揮下に置いている。シュタインメッツは明らかに、近代的な後装式小銃の効果を過小評価していたにも関わらず、頓挫した攻撃を早期に打ち切る用意が出来ていなかったのである。しかしフランス側の司令官、バゼーヌ元帥もまた、多大な犠牲を伴うシュタインメッツの部分的な敗北に乗じる思案がなかった。 この行動の結果、シュタインメッツの軍団はフリードリヒ・カール公子の指揮下に入る。そしてメス攻囲戦の間に、両名は完全に対立することとなった。しかし、シュタインメッツがポーゼンへ総督として転任したのは、彼がフリードリヒ・カール公子に対する怒りの余り報告を怠り、反抗的な姿勢を罪に問われてからである。 これを受けてシュタインメッツが提出した退役の要請を、ヴィルヘルム1世はひとまず却下した。王はこの老将への手紙で次のように書いている。 私はその優れた奉仕に報い、貴殿をこのような一歩から守る責を負っている。 こうして普仏戦争の終結後、シュタインメッツは元帥の称号とともに軍の士官として復帰を果たす。 その後、老元帥はゲルリッツで退役し、湯治に訪れていたバート・ランデックで1877年8月3日から8月4日にかけての夜、心臓発作を起こし80歳で没した。 彼は二度の結婚生活を営んだ。最初の妻は1825年10月25日に娶った従妹、ユーリエ・フォン・シュタインメッツである。1863年11月29日に妻と死別すると、彼は「私には、もう神と勤務しか残されていない(Nun habe ich nur noch Gott und den Dienst.)。」と嘆いたという。1867年、シュタインメッツはホーエンツォレルンで52歳年下の、エルゼ・フォン・クローズィク (de:Krosigk (Adelsgeschlecht)) と再婚した。
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