モーダント離婚訴訟事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「モーダント離婚訴訟事件」の解説
1869年、バーティの友人である地主・庶民院議員サー・チャールズ・モーダント准男爵(英語版)の妻ハリエット(英語版)が子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子供ではなかった。怪しんだモーダントは妻の机を調べ、そこからバーティはじめ複数の男性から送られた手紙を発見し、彼らが妻の浮気相手と確信した(バーティ自身はモーダント夫人とは友人なだけだったが)。 モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、1870年2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった。 また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、スコットランドのバルモラル城やワイト島のオズボーン・ハウスに籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人ジョン・ブラウンとの関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった(1870年から1871年にかけての普仏戦争の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)。 グラッドストン首相は外相第2代グランヴィル伯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアに宛てた書簡の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」という憂慮を表明している。
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