1870年代初期のジャーマン・リードのショー、その他の劇
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「ウィリアム・S・ギルバート」の記事における「1870年代初期のジャーマン・リードのショー、その他の劇」の解説
クリサル: こいつが私に暴言を吐いた!ゾラム: 彼が私を侮辱した両人: 我々の名誉を満たさなければならない!(両人、剣を交える)ゲレノア: だめだ、だめだ 私の言うことを聞いてくれ。この水晶の壁の中では 奇妙で不思議な力がある あらゆる人が最も明らかな真実を話さなければならない! そしてそれを疑うことなくやるのだ (ゾラムに向かって) クリサルが貴方を怒らせる言葉を話すとき それを言うつもりがなかったのだ 自分ではお世辞を使っていると考えていた (クリサルに向かって) ゾラムがあなたのことを 体系的な嘘つき、ケチ、貧乏人、卑劣 わがまま、さらには下劣、残忍、暴君と考えると言うとき それは彼が言おうとしたことではないと考えたことだ! クリサル: 分かった。それが彼の考えた唯一のことでなければ そのせいです。 ゲレノア: 彼が何を言えるって? お分かりでしょう、彼は真実を話すことを強いられているのです クリサル: もちろんだ、諒解だ、ゾラム、貴方の手を!ゾラム: 喜んで (クリサルと握手する) — 真実の宮殿 (1870年) ギルバートが著作を始めた当時の劇場は評判を落としていた。フランスのオペレッタを粗末に翻訳したものや翻案したもの、および下手な書き方をした淫乱なビクトリア朝バーレスクが、ロンドンの演劇界を支配していた。ジェシー・ボンドは、「堅苦しい悲劇や野卑な笑劇が、芝居を見に行こうという人々全てが選ばなければならないものであり、劇場は高徳のイギリス人世帯主にとって悪徳の評判がある場所になった」と鮮やかに描き出していた。 1869年から1875年、ギルバートは演劇界改革で著名な人物の1人トマス・ジャーマン・リード(およびその妻プリシラ)と手を組むようになった。リードのギャラリー・オブ・イラストレーションは、ロンドンで家族の娯楽を提供することで、劇場の失った尊敬を幾らかでも取り戻そうとしていた。これがうまく行ったので、1885年にはギルバートが、元々のイギリスの劇は観衆の中の無垢な15歳の少女にも適切であると述べていた。ギルバート最後のバーレスク(『The Pretty Druidess』)の上演3か月前、ギャラリー・オブ・イラストレーションのための最初の作品『カード無し』が制作された。ギルバートはリードのために6つのミュージカル作品を創作しており、その中にはリードその人が作曲した音楽が付いたものもあった。 ジャーマン・リードの親愛な劇場環境は、ギルバートに素早く独自のスタイルを発展させ、舞台、衣装、演技指導、ステージマネジメントなど制作のあらゆる面で統制する自由を与えた。これらの作品は成功であり、ギャラリー・オブ・イラストレーションで最初の大ヒットは1869年開演の『Ages Ago』だった。この作品は作曲家フレデリック・クレイとの共作の始まりでもあり、7年間の間に4作を制作することになった。クレイが正式にその友人アーサー・サリヴァンを紹介したのも『Ages Ago』のリハーサルの時だった。バブ・バラーズなどギルバートの多くの初期ミュージカル作品が、サリヴァンと共作を始める前であっても、作詞家として多くの練習を積ませていた。 ジャーマン・リードのショーで使われた多くの筋書き(さらにギルバートの初期戯曲やバブ・バラーズ)は、後にギルバートとサリヴァンのオペラで再利用されることになった。これらの要素としては、現実化された絵画(『Ages Ago』、『Ruddigore』でも再利用)、尊敬される男の息子に、誤ってパイロットの代わりにパイレーツ(海賊)を結びつけた聾の子守り女(1870年の『Our Island Home』、『ペンザンスの海賊』でも再利用)、「味の出る人間」である強圧的な熟女(1875年の『Eyes and No Eyes』、『ミカド』でも再利用)があった。この期間にバブ・バラーズで発展させていた「めちゃくちゃ」スタイルを完成させており、馬鹿げた前提を設定してユーモアが配置され、その論理的な結果が愚かなものになっていくものだった。マイク・リーはギルバートのスタイルを次のように語っている。 「 ギルバートは大きな流動性と自由度があり、我々の自然な創造力に常に挑戦している。第1に物語の枠組みの中で、突飛なことを発生させ、世界をひっくり返す。かくして学識ある判事が原告と結婚し、軍人が審美眼のある人に変身するなどであり、ほとんど全てのオペラが手際の良いゴールポストの動きで解決される。...彼の天才性は反対のものを微少な手管で融かし、超現実を現実に融合させ、戯画を自然なものにさせる。換言すれば、完全に常軌を逸した話を全く無表情で語ることである。 」 ギルバートは同時期にヘイマーケット劇場で幾つか「妖精喜劇」を制作した。この一連の劇は、魔術あるいは超自然的な力で動かされる登場人物によって巧まざる自己顕示があるという概念に基づいていた。その最初のものが1870年の『真実の宮殿』であり、部分的にマダム・ド・ジャンリスの話に基づいていた。1871年、この年に制作した7つの戯曲の1つ、『ピグマリオンとガラテア』は、それまでの最大ヒット作になった。これらの劇やその後に続いた『不道徳世界』(1873年)、『恋人たち』(1874年)、『失恋』(1875年)と共に、ジャーマン・リードがミュージカルで与えたものを演劇の世界でギルバートに与えており、その能力をバーレスクを超えたものにさせ、芸術的な資質を与え、ギルバートが人間ドラマを笑劇のユーモアと同じくらいこなせる領域の広い作家であることを示した。これら戯曲、特に『ピグマリオンとガラテア』の成功は、後にサリヴァンのような尊敬される音楽家との共作にとって重要となる名声をギルバートに与えた。 これらの作品が時代遅れであっても、ロンドンで通常上演されていた笑劇やバーレスクよりも洗練され味のある喜劇を、尊敬され教育のある観衆に与えたいというギルバートの望みを表していた。一方で同時期に、風刺が劇場でどこまで行き着くか、その領域を広げようとしていた。1873年の政治風刺劇『幸福の土地』(一部は彼自身の『不道徳世界』のパロディ)では、ギルバート・アーサー・ア・ベケットと協業し、グラッドストンやその閣僚をへつらわずに戯画化していたために、短期間上演禁止になった。同様に1873年の『喜びの王国』は、スキャンダル劇(『幸福の土地』をにおわせている)を演じる劇場のロビーを舞台にし、宮内庁長官官房(劇の中では「殺菌剤閣下」と呼ばれる)を出しにしたジョークを多く使っている。しかし1874年の『慈善』では、異なる方法で舞台の自由度を使っている。ビクトリア朝の社会が婚外の交渉を持った男女を扱う対照的な方法について、しっかりと書かれた批評を提供した。これはジョージ・バーナード・ショーやヘンリック・イプセンの「問題劇」の先駆けになった。
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