1870年代末のサロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:47 UTC 版)
「エドゥアール・マネ」の記事における「1870年代末のサロン」の解説
1877年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルのジャン=バティスト・フォール(英語版)は、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品だったが、落選した。 1877年の冬から1878年にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった。1878年のパリ万国博覧会とサロンには応募していない。友人ジュゼッペ・デ・ニッティスがレジオンドヌール勲章を受章すると、マネは、勲章への切望を隠そうとせず、ドガに、「僕が勲章をもらっていないですって? でもこれは僕のせいではありませんない〔ママ〕。できればもらいたいですし、その目的のために必要なことは何でもするとあなたに誓いましょう。」と話した。これに対し、外的な成功を侮蔑していたドガは、「あなたがたいそうなブルジョワなのはずっとわかっていました。」と返した。1878年、実業家エルネスト・オシュデが破産し、マネや印象派のコレクションが競売に付されたが、マネの作品は平均583フランであり、相当低い値しか付かなかった。モネをはじめとする印象派の画家の経済状況も苦しく、マネはモネに金銭的な援助をしている。 1879年のサロンには、『ボート遊び』(1774年)と『温室にて』を出品した。 1880年のサロンには、現代生活の情景を描いた『ラテュイユ親父の店』と中学時代からの親友を描いた『アントナン・プルーストの肖像』を出品した。マネは、サロン開会後、プルーストに次のような手紙を送っている。 3週間前から、サロンにあなたの肖像画が陳列されています。ドアに近い、展示場から切り離されたひどい壁面に掛けられました。場所がそうなら、評判はもっと悪いのです。しかし悪口を言われるのは私の宿命ですから、達観してそれを受け止めています。それにしても、人物をひとりだけ画面におくこと、そしてこの単独像に関心を集中させ、なおも生き生きとしているように見せることが、いかに難しいか、あなたにはほとんど信じがたいでしょう。2人の人物を描くことは、それに比べれば子供の遊びです。 — マネ、アントナン・プルースト宛て書簡(1880年) 『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。フォルクヴァンク美術館。同年サロン入選。 『ナナ(英語版)』1877年。油彩、キャンバス、154 × 115 cm。ハンブルク美術館。同年サロン落選。 『プラム(英語版)』1877年頃。油彩、キャンバス、73.6 × 50.2 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。 『旗で飾られたモニエ通り(フランス語版)』1878年。油彩、キャンバス、65.4 × 80 cm。ゲティ・センター。 『自画像』1878-79年。油彩、キャンバス、94 × 63 cm。ブリヂストン美術館。 『ビヤホールのウェイトレス(フランス語版)』推定1878-80年。油彩、キャンバス97.1 × 77.5 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『パレットを持った自画像(英語版)』1879年。油彩、キャンバス、83 × 67 cm。私蔵。 『温室にて』1879年。油彩、キャンバス、62 × 51 cm。旧国立美術館(ベルリン)。同年サロン入選。 『ラテュイユ親父の店』1879年。油彩、キャンバス、92 × 112 cm。トゥルネー美術館。1880年サロン入選。 『アントナン・プルーストの肖像』1880年。油彩、キャンバス、129.5 × 95.9 cm。トレド美術館。1880年サロン入選。
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