1870年、第二帝政崩壊、帰国
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「ヴィクトル・シュルシェール」の記事における「1870年、第二帝政崩壊、帰国」の解説
1870年に普仏戦争が勃発し、シュルシェールはパリに戻った。9月2日にセダンの戦いでナポレオン3世が降伏し、第二帝政は終焉を迎えた。国防政府が成立し、共和制を宣言。シュルシェールはパリ防衛委員会の副委員長およびパリで結成されたアルザス委員会の委員長を務めた。1871年の総選挙(フランス語版)ではパリの人民代表、次いで4月にフランス領ギアナおよび再びマルティニークの人民代表に選出された。以後、再び調査と執筆活動に専念し、労働警察に関する『マルティニークのゲイドン法令とグアドループのユッソン法令』、再びルイ=ナポレオンのクーデターに関する『12月2日 ― パリの虐殺』のほか、『家族、土地、キリスト教』、『植民地の陪審員』、『マルティニークの略奪、放火、殺人の大陰謀』、『ナタールの黒人貿易復活』、『聖パウロの真実 ― 生涯と道徳』、『1880年のセネガルの奴隷制』、『ブラジルの奴隷制』、『トゥーサン・ルーヴェルチュールの生涯』などを著した。 また、海軍・植民地省の植民地労働委員会の委員、クレオール共済組合会長、植民地高等評議会議員を歴任し、1875年に元老院終身議員に任命された。さらに、グアドループの政治家ガストン・ジェルヴィル=レアシュ(フランス語版)とともに『植民地指導員』紙を創刊するほか、女性の境遇改善協会や女性の権利連盟(フランス語版)に参加して女性の地位向上のために尽力し、ロンドンの児童養育院・共同宿泊所を視察し、初等教育の無償化・義務化について元老院で報告するなど、より幅広い分野で重要な役割を果たした。 晩年はウイユ(イル=ド=フランス地域圏、イヴリーヌ県)に引っ越し、1893年12月25日に死去した。翌94年1月5日にペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、1949年5月20日にパンテオンに合祀された。 私たちに、そして私たちの子孫に言い続けよう。この地球上に一人でも奴隷がいる限り、それは人類全体に対する絶えることのない侮辱である。― ヴィクトル・シュルシェール
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