財界人として
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渋沢栄一のあとを受けて1905年(明治38年)から1917年(大正6年)まで、13年間にわたり第二代東京商業会議所会頭を務める。 中野は、東京商業会議所会頭として全国商業会議所連合会(現在の日本商工会議所)を通じて、全国の実業界の意見をまとめることに力を入れ、中野会長時代の「商業会議所連合会は結束して政府に肉薄し、各大臣をはじめ貴衆両院、各政党にも親しくその意見を開陳して大に努力し、「これ商業会議所が甚だ活躍した時代なりとす」(『商業会議所連合会之過去及現在』)と評価されている。 日露戦争のポーツマス条約に反対して日比谷焼き討ち事件が起こった時、中野は政府の講和条約締結を支持し、賠償金をとれなかったとはいえ、戦後は、戦争継続した場合費やされたであろう「人の力と金の力」を産業に向け、軍事力から経済力の発展を中心にした国家発展を目指すべきと説いた。 日露戦争終結後も戦費調達のために導入された非常特別税が存続した。そこで、中野は全国商業会議所連合会の意見をとりまとめ、非常特別税の中でも特に織物消費税、通行税、塩専売(いわゆる「三悪税」)などの廃止を訴えた。しかし、歳入欠陥に直面した政府は、戦後不況のさなかにも関わらず、逆に石油消費税、砂糖消費税、酒税の増税などを決定した。これに対して中野は、全国商業会議所連合会を通じて商工業者の力を結集させ、政府との対決も辞さず、増税の原因となる軍事費の削減を訴えるとともに増税反対運動を展開した。このような商業会議所連合会の活発な働きかけなどにより、第二次桂太郎内閣は軍事費の繰延と国債償還を決定し、営業税の8%の減税などが実現されたが、商工業者が求める三悪税廃止などは実施しなかった。 そこで、中野は都市商工業者を主とする実業界の意見が政治に反映されるためには、実業界の代表が政界に出る必要があると痛感し、1908年(明治41年)、東京市から衆議院議員総選挙に出馬して当選(1911年まで)、実業家議員らで戊申倶楽部を結成した。ただし戊申倶楽部は40議席ほどの小会派にとどまり、政治的に大きな力を獲得するまでには至らなかった。貴族院に力をもつ山県系官僚と、農業地主を支持層として衆議院の多数を占める政友会が連携した第一次西園寺内閣や第二次桂内閣は、軍事支出と地方への鉄道敷設などの公共投資を優先し、実業界が求める三悪税廃止や増税反対の意見に否定的であった。 1912年(大正元年)第2次西園寺内閣に対して、中野は、財政悪化と国際収支の危機に対処するために財政支出の削減と行財政改革を訴え、歳出拡大につながる陸軍の二個師団増設要求について東京商業会議所としていち早く反対を表明し、西園寺公望首相や山本達雄蔵相などに直接働きかけた。そして、陸軍の増師要求を却下した西園寺内閣が陸相上原勇作の辞任で倒れて第3次桂内閣が成立すると、陸軍と長州閥に反発する世論が高まり、立憲国民党と政友会の有志が「憲政擁護会」を結成し、新聞雑誌が激しい藩閥批判を展開する第一次憲政擁護運動が起こり、桂内閣が瓦解した。(大正政変)。退陣した桂内閣の後継の山本権兵衛内閣は、行財政改革を断行して財源をねん出し、経済界の期待に応えた。しかし、大正3年度予算案では海軍軍拡費を優先させ、商業会議所が求める営業税の減税がほとんど盛り込まれなかったため、中野は全国の商工業者と連携して「営業税廃税運動」を展開した。営業税の廃止は実現できなかったが30%の減税を実現した。 1914年(大正3年)4月、第二次大隈内閣が発足し、7月に第一次世界大戦の勃発すると、欧州からの化学品や鉄鋼製品などの輸入が途絶し、中野は、全国商業会議所連合会の意見をとりまとめ「化学工業の奨励ならびに化学工業調査会の設置に関する建議」や「時局に関する建議」(理化学研究所設立や製鉄事業の振興、大戦後を見据えた海外販路の拡大などを提言)をまとめて政府に建議した。これを受け政府は、染料医薬品製造奨励法、理化学ヲ研究スル公益法人ノ国庫補助ニ関スル法律、製鉄業奨励法を制定するなど、日本経済の重化学工業化を推進した。 中野は、博覧会は戦争と違い、国が軍事力ではなく経済力を競う「平和の戦場」であると考えていた。産業振興や外客誘致による外貨獲得の観点から、日清戦争後から万国博覧会の開催を提唱し、日露戦争後に日本大博覧会の開催が計画されるとその評議員として推進したほか、東京勧業博覧会(1907年)や東京大正博覧会(1914年)の開催、サンフランシスコで開催されたパナマ太平洋博覧会(1915年)への参加にも中心的な役割を果たした。外客の誘致の環境整備のため、国策として良質なホテルの整備を訴え、「ステーションホテル構想」を提唱したことが、東京ステーションホテルなどの実現につながった。
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財界人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:37 UTC 版)
渋沢栄一の長男篤二と敦子夫妻の長男として生まれる。敦子の父は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。 東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。父が廃嫡されたこともあり、中学卒業時には澁澤同族株式会社社長に就任。当初は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する栄一が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、英法科に進学する。 1918年(大正7年)、東京帝国大学経済学部入学。 1920年(大正9年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業。 卒業後、横浜正金銀行に入行。1922年、ロンドン支店に着任(支店長大久保利賢、のち矢野勘治)。その間に木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(媒酌人は和田豊治)。重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、母磯路は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の次女。1926年(大正15年)に横浜正金銀行を退職、第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁、1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。 第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。およそ半年の在任中に預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。またこの頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋沢家はGHQの財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)に澁澤同族株式会社は持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦、津島寿一、次田大三郎らとともに証人喚問された。 1951年(昭和26年)追放解除後は、経済団体連合会相談役や、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD。現KDDI)の初代社長、財界が共同で設立した文化放送の初代会長などを務めた。
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財界人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 20:37 UTC 版)
岡本はのちに第一通商社長となる。1951年度には経済同友会通商部会部会長を務めた。訃報を伝える米国紙によれば「大蔵省のアドバイザー」を務めたという。
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