財界人としてとは? わかりやすく解説

財界人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 15:50 UTC 版)

中野武営」の記事における「財界人として」の解説

渋沢栄一のあとを受けて1905年明治38年)から1917年大正6年)まで、13年間にわたり第二東京商業会議所会頭務める。 中野は、東京商業会議所会頭として全国商業会議所連合会現在の日本商工会議所)を通じて全国実業界意見をまとめることに力を入れ中野会長時代の「商業会議所連合会結束して政府肉薄し、各大臣をはじめ貴衆両院各政党にも親しくその意見開陳して大に努力し、「これ商業会議所甚だ活躍した時代なりとす」(『商業会議所連合会過去及現在』)と評価されている。 日露戦争ポーツマス条約反対して日比谷焼き討ち事件起こった時、中野政府講和条約締結支持し賠償金をとれなかったとはいえ戦後は、戦争継続した場合費やされであろう「人の力と金の力」を産業に向け、軍事力から経済力発展中心にした国家発展目指すべきと説いた日露戦争終結後戦費調達のために導入され非常特別税存続した。そこで、中野全国商業会議所連合会意見とりまとめ非常特別税中でも特に織物消費税通行税、塩専売いわゆる三悪税」)などの廃止訴えた。しかし、歳入欠陥直面した政府は、戦後不況のさなかにも関わらず逆に石油消費税砂糖消費税酒税増税などを決定した。これに対して中野は、全国商業会議所連合会通じて商工業者の力を結集させ、政府との対決も辞さず、増税原因となる軍事費削減訴えとともに増税反対運動展開したこのような商業会議所連合会活発な働きかけなどにより、第二次桂太郎内閣軍事費繰延国債償還決定し営業税の8%の減税などが実現されたが、商工業者求め三悪廃止などは実施しなかった。 そこで、中野都市商工業者主とする実業界意見政治反映されるためには、実業界の代表が政界に出る必要がある痛感し1908年明治41年)、東京市から衆議院議員総選挙出馬して当選1911年まで)、実業家議員らで戊申倶楽部結成した。ただし戊申倶楽部40議席ほどの小会派とどまり政治的に大きな力を獲得するまでには至らなかった。貴族院に力をもつ山県官僚と、農業地主を支持層として衆議院多数占め政友会連携した第一次西園寺内閣第二次桂内閣は、軍事支出地方への鉄道敷設などの公共投資優先し実業界求め三悪廃止増税反対意見否定的であった1912年大正元年第2次西園寺内閣に対して中野は、財政悪化国際収支危機対処するために財政支出削減行財政改革訴え歳出拡大につながる陸軍の二個師団増設要求について東京商業会議所としていち早く反対表明し西園寺公望首相山本達雄蔵相などに直接働きかけた。そして、陸軍の増師要求却下した西園寺内閣陸相上原勇作辞任倒れて第3次桂内閣成立すると、陸軍長州閥に反発する世論高まり立憲国民党政友会有志が「憲政擁護会」を結成し新聞雑誌激し藩閥批判展開する第一次憲政擁護運動起こり桂内閣瓦解した。(大正政変)。退陣した桂内閣後継山本権兵衛内閣は、行財政改革断行し財源ねん出し、経済界期待応えた。しかし、大正3年予算案では海軍軍拡費を優先させ、商業会議所求め営業税減税がほとんど盛り込まれなかったため、中野全国商工業者連携して営業税廃税運動」を展開した営業税廃止実現できなかったが30%の減税実現した1914年大正3年4月第二次大隈内閣発足し7月第一次世界大戦の勃発すると、欧州からの化学品鉄鋼製品など輸入途絶し中野は、全国商業会議所連合会意見とりまとめ化学工業奨励ならびに化学工業調査会設置に関する建議」や「時局に関する建議」(理化学研究所設立製鉄事業振興大戦後見据えた海外販路拡大などを提言)をまとめて政府建議した。これを受け政府は、染料医薬品製造奨励法、理化学研究スル公益法人国庫補助ニ関スル法律製鉄業奨励法を制定するなど、日本経済重化学工業化を推進した中野は、博覧会戦争違い、国が軍事力ではなく経済力競う「平和の戦場」であると考えていた。産業振興外客誘致による外貨獲得観点から、日清戦争後から万国博覧会開催提唱し日露戦争後日本大博覧会開催計画されるとその評議員として推進したほか、東京勧業博覧会1907年)や東京大正博覧会1914年)の開催サンフランシスコ開催されパナマ太平洋博覧会1915年)への参加にも中心的な役割果たした外客誘致環境整備のため、国策として良質なホテル整備訴え、「ステーションホテル構想」を提唱したことが、東京ステーションホテルなどの実現つながった

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財界人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:37 UTC 版)

渋沢敬三」の記事における「財界人として」の解説

渋沢栄一長男篤二と敦子夫妻長男として生まれる。敦子の父は羽林家公卿出身元老院議官務めた伯爵橋本実梁東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。父が廃嫡されたこともあり、中学卒業時には澁澤同族株式会社社長に就任当初動物学者志し仙台第二高等学校農科への進学志望していたが、敬三に期待する栄一羽織袴正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、英法科に進学する1918年大正7年)、東京帝国大学経済学部入学1920年大正9年山崎覚次郎博士ゼミナールにて「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業卒業後、横浜正金銀行入行1922年ロンドン支店着任支店長大久保利賢、のち矢野勘治)。その間木内重四郎磯路夫妻次女登喜子と結婚媒酌人和田豊治)。重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、母磯路三菱財閥創始者岩崎弥太郎次女1926年大正15年)に横浜正金銀行退職第一銀行取締役澁澤倉庫取締役就任第一銀行副頭取などを経て1942年昭和17年)に日本銀行副総裁1944年昭和19年)には第16代総裁就いた第二次世界大戦直後姻戚幣原喜重郎首相幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路姉妹)に乞われて大蔵大臣就任。およそ半年在任中に預金封鎖新円切り替え、高税率財産税臨時徴収等により、インフレーション対策戦時中膨らんだ国債等の国家債務整理当たった。またこの頃より高松宮家財政顧問務めようになった一方で渋沢家GHQ財閥解体対象となり、1946年昭和21年)に澁澤同族株式会社持株会社整理対象となり、自らも公職追放指定を受ける。 また、自ら蔵相として導入した臨時財産税のために、三田自邸物納することになった追放中の1948年昭和23年10月兵器処理問題関し衆議院不当財産取引調査特別委員会東久邇稔彦津島寿一次田大三郎とともに証人喚問された。 1951年昭和26年追放解除後は、経済団体連合会相談役や、電電公社からの国際電話事業分離特殊法人として設立され国際電信電話KDD。現KDDI)の初代社長財界共同設立した文化放送初代会長などを務めた

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財界人として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 20:37 UTC 版)

岡本忠」の記事における「財界人として」の解説

岡本はのちに第一通商社長となる。1951年度には経済同友会通商部会部会長務めた訃報伝え米国によれば大蔵省アドバイザー」を務めたという。

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