財界主流派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 10:05 UTC 版)
師・宮島が帝大同期の吉田茂を支援し政権を取ったことで、宮島―吉田体制の裏方として、小林中、水野成夫、山本為三郎とともに働く。吉田が政界第一線を引退すると、宮島は政策委員を辞し、政界関係のバトンは桜田に渡された。桜田―池田勇人は、第二の宮島―吉田となる。池田は同郷で県人会等で古くからの知り合いでもあり、大蔵次官時代の池田を桜田が宮島、吉田に紹介したのが池田の政界入りの契機。1949年の第3次吉田内閣の発足時に宮島を通じて吉田茂首相に池田を大蔵大臣に推薦した。戦後GHQにより財閥が解体され、非財閥系の大企業も解体されて、一種の真空状態になった。その真空状態や乱世の財界を取り仕切ったのが、宮島の弟子というべき桜田、小林、水野と、後に加わった永野重雄の「財界四天王」と彼らに繋がる人々で、敗戦の混乱期に日本経済の基盤作りを行い、戦後の政財界の舞台裏を取り仕切ることになる。このグループは、経済同友会、日経連、経団連、商工会議所などをまとめて、それを「財界の総意」という形にして政界に圧力をかけた。それは一国の総理を決めたり、辞めさせたりする程の力を持っていた。
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