財界の代表的闘士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 10:05 UTC 版)
戦後の1945年、41歳の若さで日清紡の社長に就任後まもなく、1946年4月に発足した経済同友会創設に参加。ここで若手理論家として、おおいに嘱望される。戦時中に仕事の付き合いがあった鹿内信隆と桜田はこの会の主導メンバーで後にコンビを組む。当時から桜田は鹿内に目を付け、後の日本経営者団体連盟(日経連)設立時には日本電子工業の常務であった鹿内を引き抜いた。鹿内を見出したのは桜田である。1946年6月、桜田は諸井貫一、三鬼隆らと対労働の専門組織として関東経営者協会を発足させる。戦後間もなく、幣原内閣の労働組合法を制定で、多くの企業に労組ができると、これを日本共産党に指導され各地で労働争議が起こるが、GHQが労働対策のためのセクションを企業に設けることを許さず、経営者は避けて逃げまわり、労働者側のワンサイド・ゲームとなって各地で吊し上げや人民管理がおこなわれた。"根っこからの資本家魂"を持った桜田には、経済同友会の活動は、過激な労働争議に脅える経営物側の"単なる仲良し団体"に見えて次第に気持ちが離れてゆく。大塚万丈などが唱えた「修正資本主義」が同友会の主流となると、そんな考えでは実際に経営はできないと考えるようになる。関東経営者協会の初代は足立正委員長=諸井貫一副委員長であったが、労使激突の時代で倒れ、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビが再成立、これが1948年4月、経営者が団結して戦うための戦略本部・日本経営者団体連盟(日経連)設立に至る。日経連は桜田を中心に発足されたもので、桜田は「闘う日経連」の総理事(のちに会長に改称)に選ばれ、労務対策司令部隊長役を務める。戦後の混乱期の多くの労働争議で矢面に立つが、柔道で鍛えた果敢な気力で、三井三池争議など、各地で起こったラジカルな労働攻勢を乗り切った。
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