財界の顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 10:02 UTC 版)
「ハンス=マルティン・シュライヤー」の記事における「財界の顔」の解説
大戦後、親衛隊少尉の地位にあったシュライヤーは戦犯として3年間拘留され、1948年に釈放された。1949年にはバーデン=バーデン商工会議所の重要な職に就き、1951年にはダイムラー・ベンツに入社し秘書室に入り、同社の取締役会会長(ドイツ語版)(最高経営責任者)であるフリッツ・ケーネッケの秘書となって以降は出世の階段を上り、1963年には取締役会の一員となり全社の人事や経営計画などを担当した。1960年代末から1970年代初頭にかけて彼はケーネッケの後任の座を争ったが、ヨアヒム・ザーンに敗れた。 しかしシュライヤーは財界活動を活発化させており、ドイツ経営者連盟(BDA)やドイツ産業連合(BDI)の会長の地位に就き、保守政界とも緊密な関係をもった。彼は1960年代に労働側の抵抗(ロックアウトなど)に対して妥協のない強硬な姿勢を見せたほか、ナチ党員の前歴、テレビなどでの攻撃的な態度などから、「醜い資本家」を絵に描いたような人物として、1968年の学生運動では左派陣営から主敵の一人と見なされていた。
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