財界進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:11 UTC 版)
1898年(明治31年)1月に日銀総裁岩崎弥之助の特別使命を帯びて、大阪支店監査役に転じた。特命の内容は、日本銀行の官僚的な体質を改め、大阪の経済人と腰を低くして接するようにという趣旨のものであった。翌年3月、「日銀幹部ストライキ事件」に連座して鶴原定吉、植村俊平らの東大出身幹部らと共に大阪支店退任後、山口財閥の中心企業であった山口銀行(後の三和銀行)の総理事就任要請を受け、引き続き大阪に留まることになった。虚弱体質だった銀行の体質改善と経営刷新を断行して山口銀行再建に乗り出し、10年後には拡大発展させ、大阪財界の指導的地位に立つまでに成長させた。 1909年(明治42年)5月に慶應義塾を卒業して成人となった四代目当主吉郎兵衛を伴って、半年間欧米に外遊し翌年山口家を退いた。
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