財神としての関羽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
「三国志演義の成立史」の記事における「財神としての関羽」の解説
現在でも関羽は中国国内においても、世界各地の中華街でも、「財神」として崇拝されている。本来、地方政権の一介の武将でしかない関羽が、財神として崇敬されるようになったのは、山西商人(晋商)の活動が大きく影響している。 元々関羽の故郷である山西省の解県には、塩湖である解池があり、古来より内陸部において欠乏しがちな生活必需品である塩を供給する中国最大の生産地であった。漢代から塩は国家の専売とされたが、取引はもっぱら製塩業者や商売人が請け負った(詳細は中国塩政史を参照)。これらの中から晋商(山西商人)と呼ばれる大商人が現れる。彼らは元は山西省・陝西省出身の商人・金融業者であり、五代以降に頭角を現し、明代にピークを迎えた。南方の新安商人(徽商)とともに明・清時代には二大商業勢力にまでなる。彼ら山西商人は、同郷の偉人である関羽を守護神として崇拝していた。関羽信仰の主体が商人であったことが、武将関羽が財神に変化した原因となる。 宋代には、北方の異民族(契丹・西夏・女真)との抗争により軍事費が飛躍的に増大し、実に税収の五割が塩税で占められる。国家から徴税後の塩の取引を認められていた山西商人たちは、朝廷権力とも癒着したため、彼らの関羽信仰も朝廷の官僚や軍人にまで影響していく。次第に宋朝では、北方民族との戦いに際して、関羽に祈りを捧げるようになった。特に北宋末、金の擡頭により軍事的緊張が高まると、時の徽宗皇帝は関羽を忠恵公に封じ、その後義勇武安王まで昇格させて、宋軍への加護を祈った(右表)。徽宗はまた道教への傾倒も著しく「道君皇帝」と称された皇帝でもあった。山西商人から崇拝され、道教でも元帥神となっていた関羽は、国家からも公式に軍神としての地位を認められたことになる。その後、王朝が交替しても関羽に対する顕彰は続き、神としての地位を上げ、『演義』が成立した後はその影響もあり、明末にはついに帝号まで与えられることとなった。
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