編成経緯
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太平洋戦争勃発後、次第に威力を増してきたアメリカ海軍潜水艦による通商破壊に対抗するため、日本海軍は1943年(昭和18年)11月の海上護衛総司令部新編以降、海上護衛関係の部隊編成を進めた。そのような流れの1944年(昭和19年)6月19日、マリアナ沖海戦で日本海軍は主力空母大鳳と翔鶴を潜水艦の雷撃で喪失した。7月5日、サイパン島地上戦はアメリカ軍の勝利で終わり、サイパン島に取り残されていた第六艦隊司令部(司令長官:高木武雄中将)、第三水雷戦隊司令部(司令官:中川浩少将)、第二海上護衛隊司令部(司令官:辻村武久少将)の三司令部は日本軍守備隊(中部太平洋方面艦隊・第31軍など)と共に玉砕した。第三水雷戦隊は7月18日付で中部太平洋方面艦隊から除かれて連合艦隊付属となった。 米軍潜水艦の跳梁に対し、大本営は海軍次官・軍令部次長連名で、対潜活動の活発化と関係各位の奮起奮励をうながした。日本海軍の連合艦隊司令部(司令長官:豊田副武大将、参謀長:草鹿龍之介中将)及び第一機動艦隊司令部(司令長官:小沢治三郎中将)では、上述のように全滅した第三水雷戦隊司令部を再建し、さらに海防艦(甲型海防艦・丁型海防艦)を編入、将来的には対潜空母(大鷹型航空母艦)や対潜基地航空隊を増強し、専門の対潜掃討部隊を編成することを要望した。連合艦隊の表現によれば「現戦況ニ鑑ミ可及的速ニ潜水艦狩名人部隊ヲ編成シ」であるが、理想的編成になるのは11月以後と判断していた。当初、戦隊旗艦は長良型軽巡洋艦3番艦の名取を予定していた。 他方、軍令部第12課(防備担当)からも、海防艦及び航空機を主体とする対潜攻撃部隊の構想が持ち上がった。これらの構想は、海上護衛総司令部参謀長であった島本久五郎少将の回想によると、大西洋の戦いにおける連合国軍の対潜機動作戦部隊(ハンター・キラー・グループ(英語版))の活躍がUボートの封殺に成功したという評価に影響を受けたものであった。 そして、目的及び用法において両構想に共通性があること、現有兵力では複数部隊の編成は難しいことから、さしあたり1個戦隊が編成されることになった。軍令部は8月14日までに及川古志郎軍令部総長以下の承認を得た。その結果、日本海軍は1944年(昭和19年)8月20日に第三十一戦隊を新編した。第三十一戦隊司令官には、第三水雷戦隊司令官江戸兵太郎少将が任命された。 当初戦隊旗艦には、上述のとおり旧第三水雷戦隊旗艦だった「名取」を予定していた。だが姉妹艦「五十鈴」の方がレーダーや水測兵器が優秀と判明した。軍令部は、急遽予定を変更する。「名取」は、8月7日に撃沈された軽巡洋艦「長良」の代艦として第十一水雷戦隊旗艦の予定となった。ところがフィリピン~パラオ諸島方面輸送作戦従事中の8月18日に米潜水艦(ハードヘッド)の雷撃で撃沈されてしまった。なお『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊 <6>』では上記の経緯が述べられているが、『戦史叢書 海上護衛戦』では「名取を第三十一戦隊旗艦にする予定だったが、撃沈されたので五十鈴に急遽変更した」と記述している。 新編時の第三十一戦隊の兵力は、旗艦「五十鈴」のほかに、第三水雷戦隊の残存駆逐艦5隻(卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪)から成る第30駆逐隊と、新造の松型駆逐艦から成る第43駆逐隊(竹、梅、桃)、海防艦5隻(満珠、干珠、笠戸、三宅、第22号海防艦)であった。新編後も戦力の増強がおこなわれ、同年9月1日には新編の第933海軍航空隊が編入された。
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編成経緯
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西南戦争勃発により、官軍兵力の不足が征討軍より訴えられ、軍部当局として兵員徴募が急務になり、政府部内に即戦力となる士族を臨時に徴募し、これを以って兵員不足を補う案が出た。 しかし、明治6年(1873年)制定の徴兵令によらずに、士族を徴募することになると、軍政的に徴兵制度を破壊することになるとして、山縣有朋が反対。 そこで、徴兵令に抵触しない方法として、身分は警部 巡査として東北諸藩士族を新たに徴募したうえで、その警部 巡査を軍隊に組織化して戦地に増援することになった。 (川路利良率いる現職の警視庁 警部 巡査で構成した別働第三旅団とは別に徴募)
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編成経緯
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柏崎に集結した桑名藩交戦派(以下桑名軍)は北越がきな臭くなるや、部隊を以下の様に編成する。 雷神隊 立見鑑三郎(立見尚文) 75名 致人隊 松浦秀八 65名 神風隊 町田老之丞 57名 大砲隊 梶川弥左衛門 47名 事実上の主将はわずか24歳の鑑三郎(会津藩家老・山川浩が同年齢)。因みに町田老之丞は鑑三郎の実兄。総兵力350名程。正面切っての戦闘は困難な為、機動戦と遊撃戦が基本方針となっていく。
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編成経緯
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1945年(昭和20年)初頭の大日本帝国海軍は、レイテ沖海戦および多号作戦で多数の艦艇を喪失し、あるいは損害を受けた。残存した艦艇のうち、大型艦は軍港に繋留されて浮砲台化した。駆逐艦を主力とする第二水雷戦隊・第三十一戦隊・第十一水雷戦隊は第二艦隊に所属して作戦可能であった。 4月7日、沖縄戦にともなう坊ノ岬沖海戦で第二艦隊旗艦「大和」が沈没、第二水雷戦隊も主力艦艇をうしなう。連合艦隊はなおも「第三十一戦隊又ハ第十一水雷戦隊ノ突入計画ヲ計画中」であると言及した。4月20日、大本営は第二艦隊・第一航空戦隊・第二水雷戦隊を解隊し、空母「葛城」を連合艦隊付属に、空母3隻(天城・龍鳳・隼鷹)を予備艦に指定する。また第三十一戦隊と第十一水雷戦隊を連合艦隊付属とした。さらに二水戦残存部隊を第三十一戦隊に編入した。このうち第7駆逐隊は5月5日に解隊され、駆逐艦「潮」は連合艦隊付属に、駆逐艦「響」は新編の第105戦隊に編入されて旗艦となった。 一方、5月中旬以降には沖縄本島の陥落は時間の問題となり、本土決戦は現実味を帯びていた。海軍の攻撃方針は、すでに特攻作戦が基本となっていた。航空特攻はもちろん、水上特攻(特攻ボート震洋など)、水中特攻(人間魚雷回天、人間爆雷伏竜など)、あらゆる特攻兵器が準備もしくは投入されることになった。大本営海軍部(軍令部)が6月12日にまとめた「決号作戦ニ於ケル海軍作戦計画大綱(案)」によれば、作戦目的は「本土ニ来攻スル敵上陸船団ノ過半ヲ海上ニ撃破シ地上戦ト相俟テ敵ノ進攻企図ヲ挫折シ 以テ皇国ヲ悠久ニ護持スルニ在リ」で、作戦方針は以下のとおり。 一、 帝国海軍ハ其ノ全力ヲ緊急戦力化シ特ニ航空兵力ノ実動率ヲ画期的ニ向上セシムルト共ニ航空関係竝ニ水上水中特攻作戦準備ヲ促進ス 右作戦準備間 敵空襲ヲ予期シ極力本土所要ノ枢要部特ニ生産、交通竝ニ作戦準備ヲ掩護ス 二、 敵上陸船団本土ニ来攻セバ 初動約十日間ニ其ノ来攻隻数ノ尠クモ半数ハ之ヲ海上ニ撃破シ 残敵ハ地上ニ於テ掃滅シ得ル如クス 三、 前項作戦実施ニ当リテハ 爾他一切ヲ顧ミルコトナク航空水上水中特攻ノ集中可能全力ヲ以テ当面ノ撃滅戦ヲ展開スルモノトシ 凡百ノ戦闘ハ特攻ヲ基調トシテ之ヲ遂行ス この大綱では作戦指導において「二 敵ノ初期来攻兵力十五師団、船艇一,五〇〇隻ノ半数七五〇隻ヲ地上決戦生起前即チ約十日間ニ撃沈スル為」、7月15日までに特攻機3,000機(実動2,500機)を用意して400隻以上を撃沈、日本陸軍も同様に航空特攻で400隻以上を撃沈、さらに水上特攻部隊も輸送船団を襲撃するとされる。
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