振武集団の編成経緯とは? わかりやすく解説

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振武集団の編成経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 01:47 UTC 版)

第41軍 (日本軍)」の記事における「振武集団の編成経緯」の解説

振武集団作戦地域は、ルソン島マニラを含む中南部一帯とされた。振武集団長には、第8師団長の横山静雄中将任命され振武集団司令部第8師団司令部中核形成された。 振武集団1944年昭和19年12月17日編成発令され、その指揮権発動日は1945年昭和20年1月1日とされた。だがこの時点振武集団所属することが確定していた師団第8師団歩兵第5連隊欠)と第105師団のみであった第105師団にも後に北部転進が命ぜられる)。 振武集団作戦地域は、2個師団防衛するには広大であるため、アメリカ軍上陸した際には、アメリカ軍との決戦避け主力をもってマニラ東方山中に複郭陣地形成して篭城しつつアメリカ軍消耗させる長期持久策を採用することとなっていた。 振武集団指揮権発動になっても、第14方面軍主力ルソン島北部地域への転進の列は続いていた。このため振武集団編成北部転進行方左右され幾度か変動した最終的には、振武集団基幹戦力第8師団および第105師団一部確定した。これらの部隊中核に、マニラ周辺後方部隊航空部隊などの兵員加えてマニラ東方山中3つの集成兵団(河嶋兵団小林兵団野口兵団)、南部バタンガス州にひとつの集成兵団兵団)を編成して防衛することとなったマニラ残留したマニラ海軍防衛隊海軍31特別根拠地隊基幹)を含めて、その数、陸海軍10万5千人といわれる

※この「振武集団の編成経緯」の解説は、「第41軍 (日本軍)」の解説の一部です。
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