振武集団の編成経緯
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「第41軍 (日本軍)」の記事における「振武集団の編成経緯」の解説
振武集団の作戦地域は、ルソン島のマニラを含む中南部一帯とされた。振武集団長には、第8師団長の横山静雄中将が任命され、振武集団司令部は第8師団司令部を中核に形成された。 振武集団は1944年(昭和19年)12月17日に編成が発令され、その指揮権の発動日は1945年(昭和20年)1月1日とされた。だがこの時点で振武集団に所属することが確定していた師団は第8師団(歩兵第5連隊欠)と第105師団のみであった(第105師団にも後に北部転進が命ぜられる)。 振武集団の作戦地域は、2個師団で防衛するには広大であるため、アメリカ軍が上陸した際には、アメリカ軍との決戦を避け、主力をもってマニラ東方の山中に複郭陣地を形成して篭城しつつアメリカ軍を消耗させる長期持久策を採用することとなっていた。 振武集団の指揮権発動日になっても、第14方面軍主力のルソン島北部地域への転進の列は続いていた。このため振武集団の編成も北部転進の行方に左右され幾度か変動した。 最終的には、振武集団の基幹戦力は第8師団および第105師団の一部が確定した。これらの部隊を中核に、マニラ周辺の後方部隊、航空部隊などの兵員を加えて、マニラ東方山中に3つの集成兵団(河嶋兵団、小林兵団、野口兵団)、南部バタンガス州にひとつの集成兵団(藤兵団)を編成して防衛することとなった。マニラに残留したマニラ海軍防衛隊(海軍第31特別根拠地隊基幹)を含めて、その数、陸海軍約10万5千人といわれる。
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