石川啄木関連とは? わかりやすく解説

石川啄木関連

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:19 UTC 版)

岡田健蔵」の記事における「石川啄木関連」の解説

宮崎郁雨は、岡田函館図書館建立尽力したことと同様、「若し岡田君が居なかったならば現在の様な啄木墓碑建設されなかっただろう」と語っている。ただし岡田啄木の骨函館持ち帰ったこと、および啄木郷里である岩手県ではなく函館に墓を建てたことには批判も多い。 岡田上京して啄木遺骨を引き取ろうとした際、啄木親交のあった歌人土岐善麿会っているが、土岐親交のある大阪商業大学教授川並秀雄によれば土岐遺骨函館に移すことに反対して岡田激論交わしたといい、川並岡田行為を「強引」「高飛車」と批判している。また後に土岐川並に「遺骨全部渡してはおらず、寺のあるものを分骨しただけ」と打ち明けているが、岡田は「すべての骨を持ち帰った」と主張している。 宮崎著書函館の砂』によれば岡田岩手ではなく函館に墓を建てるにあたり礼儀として啄木の父である石川一禎に遺骨取り扱いについて意向伺ったが、一禎が「今さらそのような相談は迷惑なので適当に処理してほしい」と答え、それに憤慨した岡田は「墓は断然函館建てる」と固く決意したという。これについては当時石川啄木実妹三浦光子三浦ミツ当時結婚前石川ミツ)も存命石川家にいたこともあり、もっとよく石川家相談するべきだったとの意見もある。また一禎の先のような返答は、当時は妻や啄木先立たれた一禎が次女嫁ぎ先寄食していた身のため、やむを得なかったとの見方もある。 後に三浦光子自著悲しき啄木』や『兄啄木思い出』において以下のように語っており、これをもって岡田石川家了承得ず函館墓碑建立したことを問題視する意見もある。さらに後の1957年昭和32年)、光子啄木研究知られる日本近代文学研究者岩城之徳宛ての手紙で以下のように述べていることから、啄木の墓への考え終生、変わらなかったものと見られている。 けれどもこの墓地函館に移すということが、私たち石川家の誰の許可もえない行なわれたのはどういうわけなのだろう。(略)ほんとうに故人啄木遺志なのであろうか。私たち石川家人々にとってどうしても納得ゆかないことであった。死ぬ日の朝まで、節子さんにすら決し行かぬと誓わせた函館に、どうして兄が自分遺骨埋めてほしがるであろう。(略)私たちには、はじめから一言相談もなかったことだから、なんともできなかったのだが、どう考えても兄が嫌いぬいた函館にその墓を移したということは、兄に対して申し訳ない気がして困る。 — 三浦光子(『兄啄木思い出』)、三浦 1964, pp. 140–144より引用墓地の事、誰が何と申しましても私は函館埋めた事が最大の兄に対すぶじょくだと考へて居ります。(略)今此事に関していろいろな批判下す方も少なく御座いません、いづれ私も此事については生命のある間に何とかせねばと考へて居ります。 — 三浦光子岩城之徳宛ての手紙)、岩城 1976, p. 206より引用三浦光子は、宮崎郁雨節子恋愛明らかになったことで、啄木怒って節子に「函館に行くな」と言い残しており、函館死にたいとの啄木遺志はその問題表面化する以前のものだったとしている。この主張に対して前述小野寺脩郎は、かつて宮崎啄木通じて光子求婚したことがあったため、宮崎への恋慕節子への憎悪に形を変え節子亡き後はその想い鬱積して兄の遺骨向けられたとしている。 前述丸谷喜市も、以下のように岡田行為厳しく批判している。 骨を持って行ったのは岡田わからずやなんですよ。あの男自力図書館啄木文庫造ったほど、熱烈な啄木文献収集家なんですが、盲目的なファンです。単純すぎる。あの男が、無作法に土岐君の所へいったんでしょう。あれは非常識です。 — 丸谷喜市天野 1987, p. 88より引用。 また岡田らが建立した啄木墓碑自体についても、土岐善麿川並秀雄らは下記のように否定的に述べている。 函館の人達が、啄木との交遊記念するために、もっと永久的な、立派な塋域造るという計画に対しては、僕は初めから賛成しなかった。(略)あまり立派な設計のものは、あの啄木生涯と思想思い比べて、却って奇異な感を起すだろうと思ったのである。(略)実際眼前にみて来たものの話によると、どこの富豪のものかと思うほどのもので、おそらく近代日本文学者のうち、これほど立派な塋域をもつものは、絶無稀有であろうとのことだ。(略)もし啄木生前、こんな墓を建てるだけの金があったら、かわいい妻子飢えさせなかったろうというような意味の歌を落書きするものもあるので、遺族が困るというようなことを聞かされた。 — 土岐善麿土岐 1975, pp. 5152より引用。 そこに立派な墓を建て、今日では観光バスは必ず立待岬立ち寄りますし、また東海啄木寺という寺までつくって大きな観光財源にしています。そこで絵葉書売っていますし、記念スタンプ百円出さない押せません。与謝野晶子啄木たたえるところの歌碑ありますが、何かゴミゴミしていて静けさがありません。 — 川並秀雄川並 1975, p. 15より引用1965年昭和40年)には啄木生地である岩手県で、啄木生誕80年記念する様々な行事が行われ、その一環として啄木遺骨岩手分骨して故郷へ葬ろうとの動き再燃する至っている。1982年昭和57年時点での岡田弘子証言によれば遺骨に関する批難三浦光子土岐哀果といった関係者のみならず毎年1,2通「啄木無関係岡田という男がな東京から啄木の骨函館持ち去ったのか、まるで盗人のような行為ではないか」といった内容抗議葉書届いているという。 また前述のように岡田が『啄木日記』の公開控えた理由を、函館啄木会は「日記というものは極めて私的な内容を持つため」としているが、「貴重な研究資料であり、国民的な文化遺産である資料公開拒む」として頻繁に批判された。前述川並秀雄も「まるで私有物化」と否定的に述べている。寄贈から10年経て日記その他の出版要求強くなっているので、在京友人保管中のすべての日記割愛して欲しい」という要求出されたが、岡田は「啄木とどんな関係にある人でも、寄託者以外の第三者からの申し出には応じない」と拒否したため、新聞叩かれるという事態まで招いていた。

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石川啄木関連

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:52 UTC 版)

金田一京助」の記事における「石川啄木関連」の解説

石川啄木全集刊行の際、『ローマ字日記』に啄木とともに浅草通い娼妓遊んだ記述があったため「娘の結婚差し支える」と言って収録猛反対した。実は、京助生前啄木から3度わたって没後に(『ローマ字日記』も含めた日記託すことと、読んで焼いた方がよければ焼却するそうでなければ焼かない)ことを伝えられていた。しかし啄木葬儀直後に父の危篤東京離れたまた、焼却厳命された丸谷喜市徴兵検査不在となった)ために日記啄木の妻節子の手元で保管され節子函館没する直前宮崎郁雨日記託すことを話し節子死後、郁から函館図書館寄託された。それから20年以上が経過した1936年改造社日記公刊したいという意向を丸谷に伝え、丸谷は京助土岐善麿協議結果日記公刊(そのために日記函館図書館から3人に分配)および、公刊後に「故人及び関係者一同の最も満足すべしと思われる方法」による処置求め手紙を、函館図書館長の岡田健蔵送ったがこの要望無視された。岡田健蔵3年後1939年ラジオ放送で「自分生きている間は日記公刊焼却もしない」と宣言、それを聞いた京助は(岡田判断を)「別段理由ないようである。あるものは愛蔵者共通の心理支配だけである。しかし、それでよかろう。その気概あの日記を焼却から救っているのである」と、表向きほめながら失望示した岡田1944年死去し戦後石川正雄(啄木長女京子の夫)が日記公刊決断した際、京助その内容確認求め初め読んだ京助は、自分不利な内容削除は公平を期するために可能な限り我慢し、「余りひどい」と感じたローマ字日記』の1箇所と、「今生きている人に道徳的に迷惑になる」と判断した1箇所削除求めたが、石川正雄はそれらを削らずに出版した京助は『石川啄木日記3巻世界評論社1949年)に寄稿した啄木日記終わりに」の中で、日記読んだ印象懐かしさ記憶とのギャップなど)を記し最後に「あんな苛烈運命のもとに、運命を呪わず、病苦貧困超えて新しい明日理想描いて最後眠くなって寝に就くような静かな大往生をして行く永遠青年の、生々しい記録啄木日誌刊行は、そういう意味から、永久に尊ばるべきものを、現代文献に一つあたらしく加え得たと言ってよかろう信じるものである。」と結んだ京助は、啄木最後に訪問してきた際の記憶から、啄木晩年に「思想的転回」があったと主張していた。これに対して研究者岩城之徳資料を基に誤りであると批判京助1961年感情的な反駁発表して岩城との間で論争となった。だが京助論点を、「啄木思想的転回ではなく啄木訪問」の有無としたことで岩城論争打ち切り私信送って誤解解いたのち、1964年京助招待する形で面会して和解した。もともと岩城京助著書石川啄木』に影響受けて研究志し最初私家版論文京助送って交友始まった京助当初から岩城実証的な研究高く評価していた。面会の席で京助は「親子争いのようなものですか気にしないように」と論争について水に流しその後岩城以前同様の親しい関係を持った。ただし、啄木の「思想的転回」説については岩城主張通説となっている。

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