石川啄木関連
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宮崎郁雨は、岡田が函館図書館建立に尽力したことと同様、「若し岡田君が居なかったならば現在の様な啄木の墓碑は建設されなかっただろう」と語っている。ただし岡田が啄木の骨を函館へ持ち帰ったこと、および啄木の郷里である岩手県ではなく函館に墓を建てたことには批判も多い。 岡田が上京して啄木の遺骨を引き取ろうとした際、啄木と親交のあった歌人の土岐善麿に会っているが、土岐と親交のある大阪商業大学教授の川並秀雄によれば、土岐は遺骨を函館に移すことに反対して岡田と激論を交わしたといい、川並は岡田の行為を「強引」「高飛車」と批判している。また後に土岐は川並に「遺骨は全部を渡してはおらず、寺のあるものを分骨しただけ」と打ち明けているが、岡田は「すべての骨を持ち帰った」と主張している。 宮崎の著書『函館の砂』によれば、岡田は岩手ではなく函館に墓を建てるにあたり、礼儀として啄木の父である石川一禎に遺骨の取り扱いについて意向を伺ったが、一禎が「今さらそのような相談は迷惑なので適当に処理してほしい」と答え、それに憤慨した岡田は「墓は断然函館に建てる」と固く決意したという。これについては当時は石川啄木の実妹・三浦光子(三浦ミツ、当時は結婚前で石川ミツ)も存命で石川家にいたこともあり、もっとよく石川家に相談するべきだったとの意見もある。また一禎の先のような返答は、当時は妻や啄木に先立たれた一禎が次女の嫁ぎ先に寄食していた身のため、やむを得なかったとの見方もある。 後に三浦光子は自著『悲しき兄啄木』や『兄啄木の思い出』において以下のように語っており、これをもって岡田が石川家の了承を得ずに函館に墓碑を建立したことを問題視する意見もある。さらに後の1957年(昭和32年)、光子は啄木研究で知られる日本近代文学研究者の岩城之徳宛ての手紙で以下のように述べていることから、啄木の墓への考えは終生、変わらなかったものと見られている。 けれどもこの墓地を函館に移すということが、私たち石川家の誰の許可もえないで行なわれたのはどういうわけなのだろう。(略)ほんとうに故人兄啄木の遺志なのであろうか。私たち石川家の人々にとってどうしても納得のゆかないことであった。死ぬ日の朝まで、節子さんにすら決して行かぬと誓わせた函館に、どうして兄が自分の遺骨を埋めてほしがるであろう。(略)私たちには、はじめから一言の相談もなかったことだから、なんともできなかったのだが、どう考えても兄が嫌いぬいた函館にその墓を移したということは、兄に対して申し訳ない気がして困る。 — 三浦光子(『兄啄木の思い出』)、三浦 1964, pp. 140–144より引用。 墓地の事、誰が何と申しましても私は函館に埋めた事が最大の兄に対するぶじょくだと考へて居ります。(略)今此事に関していろいろな批判を下す方も少なく御座いません、いづれ私も此事については生命のある間に何とかせねばと考へて居ります。 — 三浦光子(岩城之徳宛ての手紙)、岩城 1976, p. 206より引用。 三浦光子は、宮崎郁雨と節子の恋愛が明らかになったことで、啄木が怒って節子に「函館に行くな」と言い残しており、函館に死にたいとの啄木の遺志はその問題が表面化する以前のものだったとしている。この主張に対して前述の小野寺脩郎は、かつて宮崎が啄木を通じて光子に求婚したことがあったため、宮崎への恋慕が節子への憎悪に形を変え、節子亡き後はその想いが鬱積して兄の遺骨へ向けられたとしている。 前述の丸谷喜市も、以下のように岡田の行為を厳しく批判している。 骨を持って行ったのは岡田がわからずやなんですよ。あの男は自力で図書館に啄木文庫を造ったほど、熱烈な啄木文献収集家なんですが、盲目的なファンです。単純すぎる。あの男が、無作法にも土岐君の所へいったんでしょう。あれは非常識です。 — 丸谷喜市、天野 1987, p. 88より引用。 また岡田らが建立した啄木の墓碑自体についても、土岐善麿や川並秀雄らは下記のように否定的に述べている。 函館の人達が、啄木との交遊を記念するために、もっと永久的な、立派な塋域を造るという計画に対しては、僕は初めから賛成しなかった。(略)あまり立派な設計のものは、あの啄木の生涯と思想に思い比べて、却って奇異な感を起すだろうと思ったのである。(略)実際眼前にみて来たものの話によると、どこの富豪のものかと思うほどのもので、おそらく近代日本の文学者のうち、これほど立派な塋域をもつものは、絶無稀有であろうとのことだ。(略)もし啄木の生前、こんな墓を建てるだけの金があったら、かわいい妻子は飢えさせなかったろうというような意味の歌を落書きするものもあるので、遺族が困るというようなことを聞かされた。 — 土岐善麿、土岐 1975, pp. 51–52より引用。 そこに立派な墓を建て、今日では観光バスは必ず立待岬に立ち寄りますし、また、東海山啄木寺という寺までつくって大きな観光財源にしています。そこで絵葉書を売っていますし、記念スタンプは百円出さないと押せません。与謝野晶子の啄木をたたえるところの歌碑もありますが、何かゴミゴミしていて静けさがありません。 — 川並秀雄、川並 1975, p. 15より引用。 1965年(昭和40年)には啄木の生地である岩手県で、啄木生誕80年を記念する様々な行事が行われ、その一環として、啄木の遺骨を岩手へ分骨して故郷へ葬ろうとの動きが再燃するに至っている。1982年(昭和57年)時点での岡田弘子の証言によれば、遺骨に関する批難は三浦光子や土岐哀果といった関係者のみならず、毎年1,2通「啄木と無関係の岡田という男がなぜ東京から啄木の骨を函館に持ち去ったのか、まるで盗人のような行為ではないか」といった内容の抗議の葉書が届いているという。 また前述のように岡田が『啄木日記』の公開を控えた理由を、函館啄木会は「日記というものは極めて私的な内容を持つため」としているが、「貴重な研究資料であり、国民的な文化遺産である資料の公開を拒む」として頻繁に批判された。前述の川並秀雄も「まるで私有物化」と否定的に述べている。寄贈から10年を経て「日記その他の出版要求が強くなっているので、在京の友人に保管中のすべての日記を割愛して欲しい」という要求も出されたが、岡田は「啄木とどんな関係にある人でも、寄託者以外の第三者からの申し出には応じない」と拒否したため、新聞で叩かれるという事態まで招いていた。
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石川啄木関連
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『石川啄木全集』刊行の際、『ローマ字日記』に啄木とともに浅草に通い娼妓と遊んだ記述があったため「娘の結婚に差し支える」と言って収録に猛反対した。実は、京助は生前の啄木から3度にわたって、没後に(『ローマ字日記』も含めた)日記を託すことと、読んで焼いた方がよければ焼却する(そうでなければ焼かない)ことを伝えられていた。しかし啄木の葬儀直後に父の危篤で東京を離れた(また、焼却を厳命された丸谷喜市も徴兵検査で不在となった)ために日記は啄木の妻・節子の手元で保管され、節子は函館で没する直前に宮崎郁雨に日記を託すことを話し、節子の死後、郁雨から函館図書館に寄託された。それから20年以上が経過した1936年、改造社が日記を公刊したいという意向を丸谷に伝え、丸谷は京助と土岐善麿と協議の結果、日記の公刊(そのために日記を函館図書館から3人に分配)および、公刊後に「故人及び関係者一同の最も満足すべしと思われる方法」による処置を求める手紙を、函館図書館長の岡田健蔵に送ったがこの要望は無視された。岡田健蔵は3年後の1939年にラジオ放送で「自分が生きている間は日記は公刊も焼却もしない」と宣言、それを聞いた京助は(岡田の判断を)「別段理由はないようである。あるものは愛蔵者共通の心理の支配だけである。しかし、それでよかろう。その気概があの日記を焼却から救っているのである」と、表向きほめながら失望を示した。岡田が1944年に死去し、戦後に石川正雄(啄木の長女・京子の夫)が日記の公刊を決断した際、京助にその内容の確認を求め、初めて読んだ京助は、自分に不利な内容の削除は公平を期するために可能な限り我慢し、「余りひどい」と感じた『ローマ字日記』の1箇所と、「今生きている人に道徳的に迷惑になる」と判断した1箇所の削除を求めたが、石川正雄はそれらを削らずに出版した。京助は『石川啄木日記』3巻(世界評論社、1949年)に寄稿した「啄木日記の終わりに」の中で、日記を読んだ印象(懐かしさや記憶とのギャップなど)を記し、最後に「あんな苛烈な運命のもとに、運命を呪わず、病苦・貧困を超えて、新しい明日の理想を描いて、最後、眠くなって寝に就くような静かな大往生をして行く永遠の青年の、生々しい記録―啄木日誌の刊行は、そういう意味から、永久に尊ばるべきものを、現代文献に一つあたらしく加え得たと言ってよかろうと信じるものである。」と結んだ。 京助は、啄木が最後に訪問してきた際の記憶から、啄木の晩年に「思想的転回」があったと主張していた。これに対して研究者の岩城之徳が資料を基に誤りであると批判、京助は1961年に感情的な反駁を発表して岩城との間で論争となった。だが京助が論点を、「啄木の思想的転回」ではなく「啄木の訪問」の有無としたことで岩城は論争を打ち切り、私信を送って誤解を解いたのち、1964年に京助が招待する形で面会して和解した。もともと岩城は京助の著書『石川啄木』に影響を受けて研究を志し、最初の私家版の論文を京助に送って交友が始まった。京助は当初から岩城の実証的な研究を高く評価していた。面会の席で京助は「親子の争いのようなものですから気にしないように」と論争について水に流し、その後は岩城と以前と同様の親しい関係を持った。ただし、啄木の「思想的転回」説については岩城の主張が通説となっている。
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