石川啄木と橘智恵子とは? わかりやすく解説

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石川啄木と橘智恵子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:44 UTC 版)

橘智恵子」の記事における「石川啄木と橘智恵子」の解説

石川啄木1907年明治40年6月弥生尋常小学校赴任した時、同校には8人の女性教師がいたが、啄木彼女たち教員生活具に観察し智恵子については「真直に立てる鹿ノ子百合なるべし」とその印象自身日記記している。また、啄木函館から札幌移転決意し同年9月11日校長退職願い出した際、その場智恵子がおり、啄木智恵子から札幌の話を聞いたという。さらに翌9月12日函館を去る前日)、啄木智恵子下宿訪ね、2時間余り親しく語り合った後、自身詩集あこがれ』を智恵子贈った。なお、啄木は後に、智恵子札幌村実家戻っていることを伝え聞き智恵子実家訪ねたことがあるが、その時本人不在で、智恵子長兄である儀一が応対した(この訪問正確な時期啄木札幌在住時であるか小樽在住時であるか)は不明)。結局その後2人直接会うことは無かったが、時折手紙葉書やりとりすることはあった。 啄木歌集一握の砂』の「忘れがたき人人・二」の22首は全て智恵子詠んだのである啄木は『一握の砂』を結婚間もない智恵子献呈し、「そのうち或るところに収め二十幾首、君もそれとは心付給ひつらむ、塵埃中にさすらふ者のはかなきなぐさみをあはれとおぼし下され度し、」と書き添えた智恵子は『一握の砂』の礼状と、嫁ぎ先農場生産されバター当時貴重品でもあった)を送って来た。また同じ頃、啄木友人宛ての手紙の中で「今度初め苗字変った(年)賀状貰った異様な気持であった、『お嫁には来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから・・・』と書いてあった、」と記している。 智恵子その生涯において、啄木について人前で語ることはほとんどなかったが、死去の約半年前(1922年大正11年5月)に、北海道歌人遠藤勝一智恵子啄木記憶について尋ねた時、次のように返答している。 「石川啄木に就きましては私も委(くは)しきことは存じません、函館におすまひになりました時分にお知り合ひになりまして、其の後年に一、二度のお便りありましたのみ、ほんの一寸の御交際御座居ました奥様御子様も少し存じませんが、奥様はお亡くなりになり、御子様函館遺愛女学校御通学ときいて居ります亡き後詩人御子様を御気の毒に思って居りますが、おたづねも出来ず居ります青年時代から変わった方でしたが、こんな有名な詩人だとは存じませんでした啄木全集には色々委しいことがのつている様です。これ以外に私は存じません 嫁ぎ先だった北村には、1999年啄木歌碑建立されている。

※この「石川啄木と橘智恵子」の解説は、「橘智恵子」の解説の一部です。
「石川啄木と橘智恵子」を含む「橘智恵子」の記事については、「橘智恵子」の概要を参照ください。

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