石川啄木と橘智恵子
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石川啄木が1907年(明治40年)6月に弥生尋常小学校に赴任した時、同校には8人の女性教師がいたが、啄木は彼女たちの教員生活を具に観察し、智恵子については「真直に立てる鹿ノ子百合なるべし」とその印象を自身の日記に記している。また、啄木が函館から札幌に移転を決意し、同年9月11日に校長に退職願いを出した際、その場に智恵子がおり、啄木は智恵子から札幌の話を聞いたという。さらに翌9月12日(函館を去る前日)、啄木は智恵子の下宿を訪ね、2時間余り親しく語り合った後、自身の詩集『あこがれ』を智恵子に贈った。なお、啄木は後に、智恵子が札幌村の実家に戻っていることを伝え聞き、智恵子の実家を訪ねたことがあるが、その時本人は不在で、智恵子の長兄である橘儀一が応対した(この訪問の正確な時期(啄木の札幌在住時であるか小樽在住時であるか)は不明)。結局その後2人は直接会うことは無かったが、時折手紙や葉書をやりとりすることはあった。 啄木の歌集『一握の砂』の「忘れがたき人人・二」の22首は全て智恵子を詠んだものである。啄木は『一握の砂』を結婚間もない智恵子に献呈し、「そのうちの或るところに収めし二十幾首、君もそれとは心付給ひつらむ、塵埃の中にさすらふ者のはかなき心なぐさみをあはれとおぼし下され度し、」と書き添えた。智恵子は『一握の砂』の礼状と、嫁ぎ先の農場で生産されたバター(当時は貴重品でもあった)を送って来た。また同じ頃、啄木は友人宛ての手紙の中で「今度初めて苗字の変った(年)賀状を貰った、異様な気持であった、『お嫁には来ましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから・・・』と書いてあった、」と記している。 智恵子はその生涯において、啄木について人前で語ることはほとんどなかったが、死去の約半年前(1922年(大正11年)5月)に、北海道の歌人・遠藤勝一が智恵子に啄木の記憶について尋ねた時、次のように返答している。 「石川啄木氏に就きましては私も委(くは)しきことは存じません、函館におすまひになりました時分にお知り合ひになりまして、其の後年に一、二度のお便りがありましたのみ、ほんの一寸の御交際で御座居ました。奥様も御子様も少しも存じませんが、奥様はお亡くなりになり、御子様は函館の遺愛女学校に御通学ときいて居ります。亡き後の詩人の御子様を御気の毒に思って居りますが、おたづねも出来ず居ります。青年時代から変わった方でしたが、こんな有名な詩人だとは存じませんでした。啄木全集には色々委しいことがのつている様です。これ以外に私は存じません 嫁ぎ先だった北村には、1999年に啄木の歌碑が建立されている。
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