石川啄木との関係とは? わかりやすく解説

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石川啄木との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:41 UTC 版)

丸谷喜市」の記事における「石川啄木との関係」の解説

丸谷は1914年執筆した「僕の見た石川君」の中で「初め石川君を知る様になったのは石川君の亡くなる二年前中略)ちょうど二番目男の子―それは生まれて間もなく亡くなった―の生まれる頃、「一握の砂のちょう世に出ようとするであった」と記している。啄木第二子長男)の真一1910年10月4日誕生27日没)、『一握の砂』の刊行同年12月1日だった。 1911年啄木執筆した詩「激論」(生前未刊詩集呼子と口笛所収)に登場する若き経済学者N」は丸谷を、また「一人婦人なるK」は丸谷の婚約者だった七宮きよを指すとされる実際に社会主義傾倒する啄木近代経済学を学ぶ丸谷とは思想的に相容れずによく議論戦わせたが、啄木は丸谷を深く信頼した1911年宮崎郁雨節子送った手紙原因啄木の間でトラブル起きた際に、丸谷は郁啄木との義絶薦めてもこれに従っている。1912年3月7日啄木の母・カツ死去すると、土岐哀果実家の寺でおこなわれた葬儀をほぼ取り仕切り同月21日啄木が妹のミツ宛てた最後の手紙代筆した。丸谷は晩年啄木から、死後日記焼いてほしいという依頼何度も受けていた。だが、前記通り丸谷は啄木葬儀直後徴兵検査北海道帰郷さらには兵役就いたため、この依頼実行することはできなかった。 啄木没後1914年回想寄稿してから啄木への言及はしばらく途絶えた1926年啄木長女京子結婚し相手となった新聞記者の須見正雄(結婚石川姓)は偶然にも丸谷の兄嫁の弟という間柄で、丸谷は石川家姻戚となる。その半年後、丸谷は突如啄木日記保管していた函館図書館岡田健蔵に、生前啄木意向踏まえて日記焼却とそのための遺族への返還求め書簡を2通送った1936年11月、丸谷は金田一京助土岐善麿(哀果)と協議結果啄木日記改造社から(公表問題ある内容除去して刊行することとそのために日記をこの3名に分配し公刊後に「故人及び関係者一同の最も満足すべしと思われる方法によって処置」することを求め書簡再度岡田健蔵に送る。しかし、岡田焼却論者だった丸谷の「変節」に激怒した。丸谷が日記刊行要請したことは岡田以外からも主張転向として受け取られたが、長浜功は、日記に関する関心の高まりの中で丸谷が「啄木文学を守るという大局観」からこの決断をしたのではないか述べている。岡田健蔵宮崎郁雨提案に基づき1939年4月14日NHKラジオ見解述べることになり、その中で自分生きている間は焼却公刊もしない」と宣言した(丸谷はそれを批判する文章書いたとされるが、確認されていない)。 岡田健蔵1944年死去し戦後1947年石川正雄が日記公刊踏み切る際には丸谷に意向だけを伝え、それに対してこれ以上話すことはない」といった返信送っている。

※この「石川啄木との関係」の解説は、「丸谷喜市」の解説の一部です。
「石川啄木との関係」を含む「丸谷喜市」の記事については、「丸谷喜市」の概要を参照ください。

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