石川啄木との関係
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丸谷は1914年に執筆した「僕の見た石川君」の中で「初めて石川君を知る様になったのは石川君の亡くなる二年前(中略)ちょうど二番目の男の子―それは生まれて間もなく亡くなった―の生まれる頃、「一握の砂」のちょうど世に出ようとする頃であった」と記している。啄木の第二子(長男)の真一は1910年10月4日誕生(27日没)、『一握の砂』の刊行は同年12月1日だった。 1911年に啄木が執筆した詩「激論」(生前は未刊の詩集『呼子と口笛』所収)に登場する「若き経済学者N」は丸谷を、また「一人の婦人なるK」は丸谷の婚約者だった七宮きよを指すとされる。実際にも社会主義に傾倒する啄木と近代経済学を学ぶ丸谷とは思想的に相容れずによく議論を戦わせたが、啄木は丸谷を深く信頼した。1911年に宮崎郁雨が節子に送った手紙が原因で啄木の間でトラブルが起きた際に、丸谷は郁雨に啄木との義絶を薦めて郁雨もこれに従っている。1912年3月7日に啄木の母・カツが死去すると、土岐哀果の実家の寺でおこなわれた葬儀をほぼ取り仕切り、同月21日に啄木が妹のミツに宛てた最後の手紙を代筆した。丸谷は晩年の啄木から、死後に日記を焼いてほしいという依頼を何度も受けていた。だが、前記の通り丸谷は啄木の葬儀直後に徴兵検査で北海道に帰郷、さらには兵役に就いたため、この依頼を実行することはできなかった。 啄木没後は1914年に回想を寄稿してから啄木への言及はしばらく途絶えた。1926年、啄木の長女京子が結婚し、相手となった新聞記者の須見正雄(結婚で石川姓)は偶然にも丸谷の兄嫁の弟という間柄で、丸谷は石川家の姻戚となる。その半年後、丸谷は突如、啄木の日記を保管していた函館図書館の岡田健蔵に、生前の啄木の意向も踏まえて、日記の焼却とそのための遺族への返還を求める書簡を2通送った。1936年11月、丸谷は金田一京助・土岐善麿(哀果)と協議の結果、啄木の日記を改造社から(公表に問題ある内容は除去して)刊行することとそのために日記をこの3名に分配し、公刊後に「故人及び関係者一同の最も満足すべしと思われる方法によって処置」することを求める書簡を再度岡田健蔵に送る。しかし、岡田は焼却論者だった丸谷の「変節」に激怒した。丸谷が日記刊行を要請したことは岡田以外からも主張の転向として受け取られたが、長浜功は、日記に関する関心の高まりの中で丸谷が「啄木の文学を守るという大局観」からこの決断をしたのではないかと述べている。岡田健蔵は宮崎郁雨の提案に基づき1939年4月14日、NHKラジオで見解を述べることになり、その中で「自分の生きている間は焼却も公刊もしない」と宣言した(丸谷はそれを批判する文章を書いたとされるが、確認されていない)。 岡田健蔵は1944年に死去し、戦後の1947年に石川正雄が日記の公刊に踏み切る際には丸谷に意向だけを伝え、それに対して「これ以上話すことはない」といった返信を送っている。
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