石川半山自身による解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 09:59 UTC 版)
この語を「発明」した石川半山はその由来について、自著『烏飛兎走録』の「第二フルベツキ先生のピストル」(p11-19)の章で以下のように書いている(旧漢字は新漢字に変更してある)。 (p17)ハイカラ語の由来(p17/p18)我輩がハイカラと云ふ言葉を書き始めた為めに、今日では大変に世間に行はれて居るが、此のハイカラと云ふ言葉を書いたのは、全く此のフルベツキ先生の話のピストルに対照させる為めで有ッた、即ち東京毎日新聞に掲げたる当世人物評中に、「山縣、鳥尾、谷などは保守主義の武断派、攘夷党の日本党、頑冥不霊なるチヨム髷党、ピストル党であるが、大隈、伊藤、西園寺等は進歩主義の文治派で、開国党の欧化党、胸襟闊達なるハイカラ党、ネクタイ党、コスメチツク党で有る」と書いたのが起因で、外のチヨム髷党、ピストル党、コスメチツク党、ネクタイ党などは少しも流行しなかッたが、唯此のハイカラと云ふ一語だけが、馬鹿に大流行を来した、今日では最早や我輩が発明したと云ふ事を知らずに用ひて居る者も多く、一の重要なる日本語となッて仕舞ふたが、然るに実は我輩が此のハイカ(p18/p19)ラと云ふことを書いた起因を申すと、全く此の時のフルベッキ先生の話を胸中に蓄えて居て、それを五六年の後に至って新聞の上に現はした結果で有る。 文中にある「フルベツキ先生の話のピストル」とは、1895年(明治28年)4月25日、当時半山が下宿していた長野県松本町(現・松本市)の丸茂旅館(現・まるも旅館)でフルベッキと会った際、フルベッキがかつて西洋人の友人に、日本人のちょん髷は西洋人を撃つピストルだから日本に行くのは危険だ、と日本行きを止められたことがあったと語ったもの。丁髷を反西洋・保守主義の象徴とみなし、その形状がピストルに似ていたことから出た話である。
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